人間の優しさの、最も感動的で最も真実な表現である何か

大学時代、文化人類学科に通っていた。
落ちこぼれ学生だったけれど、文化人類学からずいぶん影響を受けた。
いちばん影響を受けた考え方をひと言で言うと「自分からはどんなに奇妙に見える文化、社会、個人も、それぞれ固有の論理があり、固有の価値がある。そして、共感し、理解することができる。」ということだ。
「悲しき熱帯」のなかに、ナンビクワラ族をフィールドワークをした話がでてくる。ナンビクワラ族は、アマゾンの高地できわめて原始的で物質的に貧しい暮らしをしている。そんな彼らのことをレヴィ=ストロース次のように書いている。少々長いけれど引用したい。

「暗い草原の中に幾つもの宿営の火が輝いている。人々の上に降りて来ようとしている寒さから身を守る唯一の手立てである焚火の周りで、風や雨が吹き付けるかもしれない側に、間に合せに椰子の葉や木の枝を地面に突き立てただけの壊れやすい仮小屋の陰で、そして、この世の富のすべてである、貧しい物が一杯詰まった負い籠を脇に置き、彼らと同じように敵を意識し、不安に満ちた他の群れが散らばる大地に直かに横たわって、夫婦はしっかりと抱き合い、互いが互いとって、日々の労苦や、時としてナンビクワラの心に忍び込む夢のような侘しさに対する支えであり、慰めであり、掛け替えの無い救いであることを感じ取るのである。初めてインディオと共に荒野で野営する外来者は、これほどすべてを奪われた人間の有様を前にして、苦悩と憐みに捉えられるのを感じる。この人間たちは、何か恐ろしい大変動によって、敵意をもった大地の上に圧し潰されたようである。覚束なく燃えている火の傍で、裸で震えているのだ。外来者は手探りで茂みの中を歩き回る。焚火を熱っぽく反映しているのでそれと見分けられる手や、腕や、胴にぶつからないようにしながら。しかしこお惨めさにも、囁きや笑いが生気を与えている。夫婦は、過ぎて行った結合の思い出に浸かるかのように、抱き締め合う。愛撫は、外来者が通りかかっても中断されはしない。彼らみんなのうちに、限りない優しさ、深い無頓着、素朴で愛らしい、満たされた生き物の心があるのを、人は感じ取る。そして、これら様々な感情を合わせてみる時、人間の優しさの、最も感動的で最も真実な表現である何かを、人はそこに感じ取るのである」
(Ⅱ pp191-192)

レヴィ=ストロースは、ナンビクワラ族がどれだけヨーロッパ人からかけ離れていても、むしろ、離れているほど強い共感を寄せている。それは、決して高見から見下ろす同情ではなく、同じ地平から見た共感である。
この一節は「悲しき熱帯」のなかでは、いちばん感動的な部分だと思う。もう、私が付け加えるべき言葉は思い付かない。

悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)