ジョン・ロールズ「公正としての正義 再説」第五部安定性の問題

以下のエントリーの続編です。

  • 「ジョン・ロールズ「公正としての正義 再説」第一部基礎的諸概念」(id:yagian:20101013:1286916789)
  • 「ジョン・ロールズ「公正としての正義 再説」第二部正義の原理」(id:yagian:20101014:1287003785)
  • 「ジョン・ロールズ「公正としての正義 再説」第三部原初状態からの議論」(id:yagian:20101016:1287188564)
  • 「ジョン・ロールズ「公正としての正義 再説」第四部正義に適った基本構造の諸制度」(id:yagian:20101017:1287316066)

ロールズ「公正としての正義 再説」も最終回。
最後に、公正としての正義が安定した社会をもたらすことができるかという問題について議論される。
まず、例によって要約したいと思う。

ジョン・ロールズ「公正としての正義 再説」第五部安定性の問題

<公正としての正義が安定するための条件>

  • 公正としての正義が、秩序だった民主的社会において、併存する多様な包括的教説を信じている市民から支持を受けることを「重なりあうコンセンサス」と呼ぶ。公正としての正義が安定するためには、重なりあうコンセンサスを得る必要がある。
  • また、安定のためには、その正義の原理に基づく政治的構想が実行可能なものでなければならない。
  • 公正としての正義は政治的領域に限定された構想であり、特定の包括的教説に立脚したものではなく、包括的見解の相違を超えて合意しうるものであることで、重なりあうコンセンサスが実現される。
  • 公正としての正義の原理は、自由で平等で合理的で道理にかなった市民の公共的理性にとって受容可能であり、その原理に基づく制度のもとで成長する人々は正義感覚が養成されることで安定性を獲得する。

<重なりあうコンセンサスはユートピアか>

  • リベラルな構想は、基本的な権利と自由を一度限りというやり方で固定し、その推論形式は比較的明快で信頼できる。また、自由な公共的理性の構想は協調的な政治的徳性を促進する。このことにより、リベラルな構想が達成するものを市民たちが評価するようになるにつれて、それに対する忠誠を身につける。
  • 歴史的偶然によりリベラルな構想の原理が暫定協定として受容された場合、多くの市民は民主的社会が成し遂げる公共善を評価し、自らの包括的教説と両立不可能な場合には、政治的構想を拒絶するのではなく、包括的教説の方を調整、修正することが大いにありうる。
  • 次に示す市民と民主的社会の特性によって、暫定協定としてのリベラルな構想が重なりあうコンセンサスになる。
    • 市民は善への構想への能力と、正義構想を獲得し、それが求めるように行為する能力がある。
    • 市民は、制度や社会的慣行が正義にかない、公正であると信じ、他の人々もそれに献身すると確信できるとき、自分も進んで献身する。
    • 他人が正義にかない公正である制度に献身するとき、市民は他人に対する信用と信頼を発達させる。
    • 共有された協働の取り決めの成功が長く維持されるほど、信用と信頼はより強く、より完全に育まれる。
    • 現代の民主的社会の歴史的・社会的条件である穏当な多元性の事実、その永続性の事実は、誰もが承認している。
    • うまく組織された社会的協働を公正な条項に基づき確立することによって、多くの利得を得ることができる。

<政治社会の善と安定性>

  • 公正としての正義の原理に基づく社会において、市民は正義の目的のために全生涯にわたって十分に恊働するための道徳的能力を持っており、その道徳的能力の行使は善として経験される。
  • 政治社会は、正義の善と、相互尊重や自尊の社会的基盤を確保し、自由で平等な者としての市民の地位の公共的承認を保障する。
  • これらの善は、包括的教説の善に属しているのではなく、重なり合うコンセンサスに基づいている。
  • 多くの人々の協働によって達成されるような共有された最終目的が存在するところでは、実現される善は社会的なものである。
  • 市民たちが自分たちの政治社会を善とみなし、高く評価することで、彼らの社会への満足が高まり、そのような基本構造に基づく秩序だた社会が安定的なものとなる。

ロールズの正義の二原理は、高邁な理想、思想だと思う。そして、それを哲学的に基礎付けようとする努力は、そのことが完全に成功していないとしても、感銘を受ける。広く大きな影響を与えたことも納得できる。繰り返しになるが、この原理に基づく社会が実現しうるかという点については疑問もある。
CNNのAnderson Cooper 360°(http://ac360.blogs.cnn.com/)を見ていたら、ネヴァダ州のティー・パーティー・ムーブメントに支持された上院議員候補が、アラブ人が集まっているコミュニティでシャリーアイスラム法)が実質的に施行されており、合衆国憲法に反するという趣旨の発言をしていたことを取り上げていた。これは、ロールズの構想の困難さを示していると思う。
ロールズは、民主的社会が成し遂げる公共善が評価されれば、包括的教説より政治的構想が優先されると言っている。確かに、西欧社会ではそのような歴史的事実がある。しかし、シャリーアは、社会全体を基礎づける包括的な教説であり、そのような原理に基づいたイスラム国家は現に存在する。それゆえ、シャリーアは穏当な多元性と両立しないため、合衆国憲法に反し、アメリカ国内で危険視されることになるのだろう。
このように、限定された政治的構想と両立できない包括的な教説が有力な場合、リベラルな社会はどのように成立しうるのかが大きな問題となる。トルコなどムスリムが有力であっても宗教の自由を認め、シャリーアを施行していない国も多い。しかし、トルコにおいては最近イスラム主義への傾斜が強まっており、リベラルな社会の正義の原理は常に疑問にさらされることになる。
また、ロールズは「公正としての正義 再説」では、国内の社会に議論を限定していたが、国際関係に眼を向けると、このような包括的な教説に基づく国家、例えば、タリバーンアフガニスタンなどに対してどのように向かうべきかが問題となるだろう。
しかし、数多くの難点がありながらも、また、私自身はリバタリアン的な信条を持っておりロールズの見解には合意しないけれども、その思想の美しさや理想を掲げることの意義は強く感じることができた。

公正としての正義 再説

公正としての正義 再説