英語が上達した時

菅原克也「英語と日本語のあいだ」を読んだ。
国際的な調査で、日本人の英語力の低さが明らかになっている。このため、学校における英語教育は長年批判されている。そこで、文部科学省は、高校における英語教育をダイレクト・メソッドによるオーラルのコミュニケーションを中心とした授業に切り替える方針を示した。
菅原克也は、この方針に異を唱えている。私自身、現代の日本の学校における英語教育の実態を知らないから、彼の主張の是非は判断できないけれど、彼の議論の前提条件には同意する。
本の学校における英語教育について考える前提として、生徒がほぼ完全に日本語環境で生活しており教室の外では英語でコミュニケーションする機会がほとんどないこと、英語の授業の時間数には限りがありそれだけで実用的な英語を習得することは難しいことの二点を指摘している。このため、学校での英語教育の目標を、将来英語でコミュニケーションをすることが必要になったとき、自ら英語を学ぶことができるように基礎的な学力を養成すること主張している。このことには、私自身の経験に照らし合わせて見て、同意できる。
私の高校時代を振り返ってみると、外国人と英語でコミュニケーションをする機会はほとんどなく、学校で学ぶ英語は実践的なものではなくて、あくまでも机上のものだった。自分の英語力が養われた機会を思い出してみると、四回ほどあり、いずれも何らかの意味で英語環境に触れ、独学で習得した時だった。
最初は、大学に入って文化人類学を専攻したとき。文化人類学はマイナーな学問だから、重要な文献が必ずしも和訳されているわけではない。授業で英語の専門書を輪読する授業があった。高校での英語の読解の授業は、断片的な短い文章を読むことが中心だったから、ボリュームのある英語の本を読み通すという経験がなく、ずいぶん苦労した。先生からも英語力がないことを皮肉られて悔しい思いもした。しかし、英語を読むという力は、その時に向上したように思う。
次は、3か月ほどアメリカに語学の研修に行ったとき。文法、読解、作文の授業では、すぐにいちばん上のクラスに進むことができた。これは、高校までの英語の授業と、大学で英語の本を読む機会があったことの効果だと思う。しかし、オーラルでのコミュニケーション、特に、スピーキングには最初は苦労した。しかし、わずか3か月だったけれど、意識して日本人とは交流しないようにして、英語だけで生活するようにしていたら、それなりにコミュニケーションできるようになったように思う。文法、読解の基礎的な能力があれば、たしかに、オーラルでのコミュニケーションは英語の環境に身をおけば比較的短期間で習得できるように思う。
三番目の機会は、会社で英語を使うようになったとき。社内では、日本語を使っているけれど、海外の情報を収集するために英語の資料を読んだり、海外に出張してインタビューをしたり、海外のパートナーの会社の担当者と英語で交渉したりすることを通じて、さまざまな場面でのコミュニケーションに慣れることができた。特に、私同様、英語のネイティブスピーカーではない外国人と英語でコミュニケーションすることが多かった。仕事の上でのコミュニケーションはなんとかできるようになったけれど、一緒に食事をしながら雑談するようなことはいまでもなかなかうまくできない。
四番目の機会は現在。インターネットで、英語でコミュニケーションをするようになったこと。今回は、特に、ライティングをするようになったことが特徴だと思う。
自分の英語習得を振り返ると、やはり、何らかの意味で英語環境と接触を持ち、まとまったボリュームの読解、作文、オーラルでのコミュニケーションをすることが必須だと思う。その意味では、今の日本の学校教育だけでは英語を習得することは、そもそも無理だと思う。菅原克也が主張するように、学校教育の役割は自らが英語を学習するときに役立つ基礎的な英語力を養成することだと私も思う。
それでは、高校までの英語教育は私にとって役立っただろうか。結論から言えば、役立っていると思う。大学で専門書を読んだり、仕事において英語でコミュニケーションをしたりためには、フォーマルな英語の文法は不可欠で、それは高校までの教育で習得した英語の知識が大いに役立っている。
一方、私にとって、仕事で英語を使うことよりも、英語で雑談することの方が苦手で、カジュアルなオーラルでのコミュニケーション能力は不足している。その面では、学校での英語教育はあまり役立っていない。
結局、それぞれの個人が、どのような英語でのコミュニケーションを目指すのか、ということに、学校での英語教育の役割、目的は依存するのだと思う。英語で雑談することを目的とするならば、ネイティブスピーカーとオーラルでのコミュニケーションをすることを重視すればよいし、仕事において正確で誤解のないコミュニケーションや大量の情報を収集することを目的とすれば、フォーマルな英語の基礎を習得することが重要だろう。
私個人の場合には、これまでは後者が重要だったから、日本の学校での英語教育はまったく役立たなかった、という訳ではないと思う。

英語と日本語のあいだ (講談社現代新書)

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