ウーマク誠小の歌と人生

昨日、つれあいが夕食の準備をしているときに、上機嫌で「ヒヤミカチ節」の鼻歌を歌っていながらテレビを見ていたら、つれあいに「誠小の歌を聴きながら帰ってきたのね」と言われた。図星だった。「ハウリング・ウルフ」という彼のCDを聴いていた。もしかしたら、地下鉄の中で声に出して歌っていたかもしれない。
この週末、つれあいが買った登川誠仁の自伝「オキナワをうたう」を読み、会社の行き帰りに誠小の歌を聴かずにはいられなくなった。
誠小は1932年生まれだけれども、戦争とアメリカ軍占領時代(アメリカ世)と復帰時代(大和世)を体験した世代の人たちは、誰もが重い歴史を背負っている、背負わずには生きることができなかったのだなと思う。彼自身は、自分のことを「ウーマク」(やんちゃ、悪ガキ)だったからという。たしかに「ウーマク」な人柄なんだろうなとは思うけれど、あの時代は「ウーマク」でなければ生き抜けなっただろうとも思う。
少し長いけれど、彼の戦争体験の一部を引用する。

 読谷は、米軍が本島にはじめて上陸した場所です。たくさんの戦艦が海上にひしめき、その戦艦を狙って日本軍の特攻隊が飛来するという、かなり危険な地域でもありました。
 私達が読谷にいた三、四日の間でも、夕方になるとやはり特攻隊員を乗せた飛行機が飛んできました。
 まだ肌寒い時でしたから、米軍が上陸した直後の四月頃のことでしょうか。私は長い綿入れだけを上に羽織り、下はパンツ一枚に裸足、という格好だったことを覚えています。
 戦闘機の音が多くから聞こえてきました。その時、オジイやオバアが若い者に向かって、屋根瓦によじ上れ!と声を張り上げました。
「(特攻隊の連中は)死んでいくのだかから、手を振ってやれ」と。
 たくさんの沖縄の少年たちが、屋根瓦の上から手を振りました。私たちは布切れをふり回して彼らを見送りました。
 戦闘機は米軍の高射砲を避けて超低空で飛んできました。兵士の顔も手に取るように見えました。
 笑っている兵士、手を少し上げて合図を送る兵士…。眼下にはアメリカの大船団が広がっています。
「頑張ってよ!」
 こう叫ぶのが精一杯でした。
 頭上を過ぎた戦闘機は、向こうに待ち構える巨大な戦艦に向かって飛び込んでいきました。その姿はまるでハエのようでした。澄み切った青空に黒点のように見える小さな飛行機が、たくさんの弾薬や砲弾を抱えた軍艦にぶつかったとき、大爆発が起こりました。続いて隣の戦艦にも火柱が。続いて、また。
(pp42-44)

戦争が終わると、米軍キャンプにハウスボーイとして潜り込み、黒人兵たちから可愛がられたという。パーティーに呼ばれ、彼らが歌を歌い始めると、誠小は手製の三線を持ち出して一緒に歌ったという。彼が低く太い声で歌うのは、黒人の話し方、歌い方の影響があるのかもしれない、と言っている。その経験の話はこの日記にちょっと書いた。(id:yagian:20110401:1301604218)
米軍キャンプに潜り込んだのは、単にハウスボーイとして働くためだけではなく、物資を盗むことが目的だった。当時、それは「戦果」と呼ばれていたのだという。
戦後の沖縄でサバイバルをするのは苦しかっただろうと思う。しかし、そんなエピソードを楽しげに、ウィットに富んだ口調で話す誠小のタフさに心を打たれる。
その後も、波乱万丈の「ウーマク」な人生が続くのだが、なぜか「歌」にだけは真剣に取り組み続け、「歌」だけは誰にも負けないという自負がある。「伝統芸能」としての沖縄民謡ではなく、生きている沖縄の歌の世界を切り開いていく。そのことをこんなふうにユーモラスに表現している。

 最近は私の知らないところで「沖縄のジミヘン」などと言われているそうですが、私は「ジミ・ヘンドリクス」などというロックの人など知りません。はっきりしているのは、私はその人よりもずっと先に早弾きで世に出たということです。

ブラボー、誠小!
彼の歌はソウルフルで心を打つ。彼の「ウーマク」な人生経験が彼の歌にソウルを与えているのか、それとも、単に彼が歌が上手いだけなのか、それはわからない。
私は、誠小の歌にあわせて「ヒヤ ヒヤ ヒヤ ヒヤ ヒヤ ヒヤミカチウキリ ヒヤミカチウキリ」と歌う。

「ヒヤミカチ節」登川誠仁

オキナワをうたう―登川誠仁自伝

オキナワをうたう―登川誠仁自伝

ハウリング・ウルフ

ハウリング・ウルフ