日本語で書く、英語で書く

昨年末よりウェブログを日本語と英語で書いている。なかなか興味深い言語体験をしている。
つれあいから英語で書くことを勧められ、最初は日本語で書いていたウェブログの記事を自分で英語に翻訳することから始めた。その記事を、このはてなダイアリーにアップすると同時に、lang-8(http://goo.gl/fuyN)にアップロードして添削してもらようにしていた。
以前のウェブログ(id:yagian:20110409:1302297897)で、和臭、英臭ということを書いたけれど、日本語から訳す英語は日本語の発想、香りたっぷりなのだろうと思い、順番を変えてまず英語で書き、それを日本語に訳すようにした。
そうすると、やはり、自分の英語の能力の制約で表現できる内容が限定されてしまうことや、調べながら書く英語では文章にスピード感がでないことや、今度は逆に英語の香りがする日本語になってしまうという問題が起きた。だんだん、英語で書いていると、それをわざわざ日本語に訳すのがめんどうになっていた。
下にも書いている通り、日本語のウェブログはこのはてなのダイアリーに限り、英語のウェブログはblogspot(http://yagian.blogspot.com/)に移動し、基本的にはそれぞれ別の内容、話題を書くという方針にした。
もちろん、日本語話者が興味を持ちそうな題材は日本語で、英語話者が興味を持ちそうな題材は英語でという使い分けをしているけれど、それよりも自分として日本語で書きたいことと英語で書きたいことが違っているということに気がついた。
当然のことだけれども、母語である日本語で書くときは、心の中の泉から滾滾と水が湧いてくるように言葉が流れ出す。それをなるべくそのままのスピードで書きたいと思っている。もちろん、論理的なことを叙述するときは、文章の構成をじっくり考えたり、校正したりしなければならないけれど、むしろそのような文章は英語で書き、日本語はもう少し感覚的な文章を書きたいという気持ちがある。
英語で書くときは、なるべく「英語で考える」ようにしている。まず頭の中で日本語を思い浮かべ、それを英語に置き換えて書くのではなく、なるべく直接英語で発想するようにしている。しかし、そうであっても、日本語のように泉から水が湧くがごとく言葉がでてくるわけではない。もどかしく手探りをし、辞書を調べつつ表現を探しながら書いている。ジグソーパズルを組み立てるような気分である。全体像はなんとなくわかっている。そしてピースを探しながら組み立てる。しっくりこなくても、むりやりピースを押し込んでしまってとりあえず満足する。そんな感じである。
上にも書いたけれど、英語で書くときは、そもそも感覚だけで書けるのではなく、論理的な操作が入ってくる。だから、論理的なことを書くときは、むしろ英語で書いた方がよいような気がする。たまに、日本語が非論理的で英語やフランス語が論理的だということをいう人がいる。そのような人はさほど深く言葉を考えているわけではないのだろうけれど、第二言語でものを書くのは多かれ少なかれ理知的、論理的な操作が伴うから、そういう意味では、その言葉自体が論理的、非論理的ということではなく、その人にとってより論理的な表現ができるという言葉ということはあるかもしれないと思う。
数学やプログラミング言語も、一種、第二言語のようなものだから、論理的な表現ができるという側面があるのかもしれない。あくまでも、単なる思い付きだけれども。
あと興味深いのは、日本語で書くときには、あまり言葉遊びや詩、小説のようなものを書こうという気持ちが湧かないけれど、英語で書くときにはむしろそういったものを書きたくなるということだ。
数日前、こんなツイートをした。

I, an early bird, am listening to the songs of birds in the early morning.

I feel sleepy, because I don't sleep enough. Although I feel sleepy, I don't sleep enough.

詩おろか言葉遊びとも言えないかも知れないけれど、early birdの自分がearly birdの声を聞くとか、接続詞だけが入れ替わっているだけで意味が変わるとか、そういう言葉の意味内容ではなく、形式的な側面に興味がそそられる。
やはり、自分にとって日本語はきわめて主観的なもので、客観的に眺めることがあまりないけれど、英語はパズルのように客観的に操作する対象という意味で、言葉の形式に目が行くのかもしれない。
自分でも驚いたことに、英語で書いていたら、いつの間にか自然にお話を作っていた。(http://goo.gl/wlQhX)長らくウェブログを書いているし、小説を読むことは好きだし、また、身辺雑記を書くときにフィクションを混ぜて書くことはあるけれど、意識的に頭から終わりまでフィクションを書いたということはなかった。
日本の小説の伝統では、志賀直哉の一連の短編小説のように随筆と区別が付かないような作品を短編小説とみなすから、そういう意味では(自分を志賀直哉に比べるのは恐れ多いけれど)、一種小説的なものを書いていたのかもしれないが、英語でお話を作るという行為は、それとはちょっと違う感じがする。何に触発されてたのかわからないし、これからも継続的に英語でお話を作り続けるかわからないけれど、われながら興味深い。
もう一つ英語で書きたいのは、日本の文章や詩の翻訳である。翻訳の貿易収支では、当然、英語から日本語の翻訳の方が圧倒的に多い輸入超過状態である。個人で何ができるというわけではないけれど、それだったら、ささやかながら輸出してやろうかという気分もある。あと、日本語の英語への翻訳、英語の日本語への翻訳のいずれにせよ、翻訳という行為を経ることで精読することになり、その文章の意味を深く考えることになる。書く文章は英語であっても、むしろ、オリジナルの日本語の文章を深く考えることになる。しばらく前、サンボマスターの歌詞を翻訳した話を書いた。(id:yagian:20110417:1302986562)サンボマスターはお気に入りでよく聴くけれど、考えてみればこれほど深く彼らの歌詞の意味を考えたことはなく、いろいろな発見があって楽しかった。