「偉ぶらない」こと

村上春樹の「雑文集」をちょうど読み終わった。彼の文章はいつも刺激的で、彼の文章についていくつも日記を書きたくなる。
この本のなかで、小説家とはなにか、ということについて書かれた文章がある。その部分を引用したい。


小説家とは何か、と質問されたとき、僕はだいたいいつもこう答えることにしている。「小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間です」と。
なぜ小説家は多くを観察しなくてはならないのか?多くの正しい観察のないところに多くの正しい描写はありえないからだ―たとえ奄美の黒ウサギの観察を通してボウリング・ボールの描写をすることになるとしても。それでは、なぜわずかしか判断を下さないのか?最終的な判断をくだすのは常に読者であって、作者ではないからだ。小説家の役割は、下すべき判断をもっとも魅惑的なかたちにして読者にそっと(べつに暴力的にでもいいのだけど)手渡すことにある。
おそらくご存知だとは思うけれど、小説家が(面倒がって、あるいは単に自己顕示のために)その権利を読者に委ねることなく、自分であれこれものごとの判断を下し始めると、小説はまずつまらなくなる。深みがなくなり、言葉が自然な輝きを失い、物語がうまく動かなくなる。
村上春樹の文章がとても刺激的なのは、結論を押しつけず、私が自分自身で考えることができるからだと思う。私自身、ウェブログを書くとき、自己顕示欲からどうしても偉そうな結論を読者に押し付ける誘惑に負けてしまうことが多い。
つれあいに、松任谷正隆ウェブログ(http://goo.gl/lOij7)がいいと教えてもらい、最近では、はてなのアンテナに登録して、定期的に読んでいる。じつにくだらなくていい。松任谷正隆もその分野では「偉い人」なのだと思うけれど、その「偉さ」がまったくないくだらなさを継続しているのがすばらしい。彼自身も、「ブログではひたすら馬鹿なことをやっていたい、と思っているもので・・・」と書いているけれど、りっぱな大人がこれだけのくだらなさを継続できるのは、かなりの意志を要すると思う。人間誰しも「偉い」と思われたいから、それをしないでいるのは難しい。むしろ、若者ではなく、りっぱな大人だからこそ「偉ぶらない」ことができるのだろうなと思う。
クレイジー・キャッツの歌を聴いていると、その歌詞のくだらなさに感動する。その頃の青島幸男は、つくづく才能のある人だったのだと思う。しかし、彼も国会議員になり、都知事になりと、くだらなさを継続することができなかった。そういう意味では、最期まで偉くならなかった赤塚不二夫は偉いと思うが、その代償はアルコール依存症だと思うと、切ない気持ちにもなる。
私は東京出身で東京に根付いた有名人には点が甘くなってしまうことが多いけれど、ビートたけしにはどうしても違和感がぬぐえない。「お笑い」という立ち位置を安全圏として確保して、「偉そうな」ことを語る姿を見ると、どんなもんだろうと思ってしまう。その点、タモリは「偉ぶらない」という一線はきちんと守っていていいなと思う。赤塚不二夫への弔辞も、「偉ぶらず」しかし、すばらしくかっこいいものだった。
桑田佳祐奥田民生もその「偉ぶらなさ」が偉いと思う。音楽での達成を利用して「偉ぶろう」と思えばいくらでも「偉ぶる」ことができるはずだけど、きちんとくだらないところを守り続けている。そして、それがかっこいい。
もちろん、「偉ぶらない」ということは、本業への強い自信に支えられているのだと思う。村上春樹松任谷正隆赤塚不二夫タモリ桑田佳祐奥田民生も自分の仕事への自信が、自分を等身大以上に見せる必要を感じさせないのだと思う。そして、それが彼らのかっこよさの源なのだろうと思う。
小人物で、自己愛と自己顕示欲が有りあまっていて、精神力が弱い自分には、とてもくだらなさを守り続けることなどできないけれど、少なくとも、自分の身の丈に合ったことだけを書いていようと思う
村上春樹 雑文集

村上春樹 雑文集