諸行無常と諦念

英語版ウェブログ(http://bit.ly/fgWkuK)で、こんな記事(http://bit.ly/jK068B)を書いた。
日本語に翻訳するとこんな内容になる。

風をあつめて

父親から、終戦の日はとても暑く、日差しが眩しかったと聞いたことがある。その時、東京には何もなかった。

東京に住んでいる人は、いつかは、また、大地震が東京を襲うだろうと信じている。

私は、東京が破壊された様子を想像することができる。

いまでは崩壊してしまった高いビルがかつては遮っていた青く広い空を見上げ、古きよき私の東京を思い出しながら、この歌を歌う。

「風をあつめて」はっぴいえんど

以下、英語訳詞

この記事を読んで、"That is a very sad tought!"というコメントがあった。それに対して、こんな風に答えた(原文は英語だけど、翻訳します)。

そう、とっても悲しい想像だけどね。

仏教では、世界には永続するものはない(諸行無常)し、人間はその事実を直視して受け入れなければならない(諦念)と教えるんだ。

私も含めて、たいていの日本人は熱心な仏教徒じゃないけど、こころの片隅には諦念を持っていると思う。

この地震津波で、被災者の人たちが秩序を守っていたのは、何が身に降りかかろうとも受け入れなければならないという諦念という考え方を共有してたからだと思う。

普段は自分の人生についてはポジティブに考えているけど、諸行無常ということも感じてる。

たまに、仏教はほんとうに厳しい教えだと思う。諸行無常は真実だと思うけれど、ふつうの宗教や哲学はそれから眼をそむけてしまう。しかし、仏教ではそれを直視して受け入れるべきだという。宗教でありながら、自ら救済を否定してしまっているところがある。その意味で、仏教は"That is a very sad tought!"だと思う。
一方で、言葉では説明することができないけれど、諦念ということが、逆説的に、人生や世界をポジティブに考えることの基礎、大きな力になるような気もしている。何があろうとも受け入れる、ということは、きわめて受動的なようだけれども、それが能動的であることの源になるような、そんな気もしている。