先日の記事(id:yagian:20110526)で、歴史小説や大河ドラマが国民の統合を促す「建国神話」として機能しており、その意味では司馬遼太郎はまさに「建国神話」の書き手である「国民的作家」だと思う、ということを書いた。
どうも私には虎の尾を踏んでしまうくせがあり、この人のことの悪口を書いたら皆からきらわれそうだなと思いつつも、どうしても悪口を言いたくなる人がいる。司馬遼太郎と塩野七生がその代表格である。簡単にいえば、過大評価されていると思う人を引きずり下ろしたいという気持ちである。しかし、私が「過大評価されている」と思う人は、人気があるから、彼らのファンには嫌われてしまうのだろうなとも思う。
「司馬史観」という言葉があるが、そんな偉そうなものがあるのだろうかと大いに疑問である。決して司馬遼太郎が悪い作家だとは思わない。歴史を素材としたエンターテイメント作家としてはうまいと思う。まず、改行が多くて、ページを開くと白い印象で目に優しい。何巻にもおよぶ小説もあるけれど、すらすらと読める。独特な司馬節があるけれど、読みやすい文章だし、内容も適度に薄い。エンターテイメント小説はこうでなければいけないだろう。
ちなみに、私自身、夏目漱石のファンで、彼の親友である正岡子規に関する本を読んでいた時期がある。そう言えば、「坂の上の雲」で子規を扱っていたことを思い出し、再読したことがある。しかし、残念なことに、子規については文庫本で得られる程度の知識しかない私だったけれど、新たな収穫は全くなかった。しかし、「坂の上の雲」の読者はべつに子規について詳しい情報をもとめているわけではないだろうから、その内容の薄さはエンターテイメント作家としての司馬遼太郎の賢明な選択ということなのだろう。
私がいちばん好きな歴史小説は、鷗外の「阿部一族」と「澁江抽斎」(この作品を歴史小説に分類できるかわからないけれど)である。(ちなみに、いちばん好きな時代小説は、やはり鷗外の「ぢいさんばあさん」)しかし、読みにくい。ページを開くと、活字がぎっしりつまっていてページが黒く見える。知らない漢語や外国語、しかも、英語以外の、が突然混ざっている。情報量の密度は極めて高い。当然難渋して、すらすらと読み進むわけにはいかない。「阿部一族」は短編だからいいけれど、「澁江抽斎」は長いから、いくら好きだと言っても読み進めるには忍耐がいる。私は幸いなことに懇切丁寧な駐がある文庫本で読めるけれど、新聞連載当時読んでいた読者はどんな人だったのだろうか。
偉い人の中にも「竜馬がゆく」をあたかも歴史的事実として捉えて、坂本龍馬に憧れている人もいる。あれは、歴史小説というようりは、むしろ、時代小説と言っていいぐらいフィクショナルな作品で、幕末を舞台とした痛快青春小説なのだろうと思う(と、あえてこんなことを書くのもばかばかしく感じられるが)。もちろん、小説の主人公に憧れることはよくあることだし、決して悪いことでもない。しかし、歴史上の人物として憧れているのならば、知性を疑ってしまう。
ところで、もし「司馬史観」というものがあるとしたら、大雑把にまとめれば、こんなふうになると思う。
東洋の小国だった日本に西洋の帝国主義国が迫ってきて、それに危機感を持った志のある志士たちが立ち上がり(「竜馬がゆく」)、明治維新が起こった。その後も、西洋の帝国主義に対抗するための艱難辛苦を潜りぬけ、その最大のものが日露戦争だった(「坂の上の雲」)。しかし、その後、なぜかわからないが日本は変質してしまい、満州事変、日中戦争、太平洋戦争に雪崩込んでしまった(この時代の小説は書いていない)。
しかし、この歴史観には違和感を感じる。満州事変から太平洋戦争にかけての時代も、明治時代に準備されていたはずで、一連のものだと思う(その意味では、戦後の日本も戦前の日本の遺産であることは間違いない)。
明治憲法には、軍隊の統帥権が天皇にあるという重大な欠陥があったことが原因だという説がある。維新の志士であった元老が健在だった時代には国家の意志は統一されていたけれど、元老がいなくなってからは、国家の意思を統一することができなくなり、政府が日本軍を制御することができなくなったというのである。この説には概ね同意できるけれど、それだけではないと思う。やはり昭和初期の時代の種子は、「坂の上の雲」の時代に撒かれていたと思う。
「坂の上の雲」は、西洋の帝国主義国と日本の相克の歴史をテーマとしたものだが、西洋と日本の相克を代表する人物である夏目漱石が本格的に描かれることはない。正岡子規が三人の主人公の内のひとりだったのだから、もっと本格的に取り上げることは可能だったろうと思う。しかし、そのことは避けられている。それは、おそらく、彼がその時代に生きていてけれど、「坂の上の雲」を見てなかったからだろう。
夏目漱石の「三四郎」のなかに広田先生に語らせている有名なセリフがある。
「お互いは哀れだなあ」と言い出した。「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」と言ってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。
「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「滅びるね」と言った。――熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。悪くすると国賊取り扱いにされる。
ある意味、日露戦争後の日本の進路を同時代の人として見通していたのだろう。
また、「現代日本の開化」という講演では、このように語っている。
西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。…これを一言にしていえば現代日本の開化は皮相上滑りの開化であるという事に帰着するのである。
無論一から十まで何から何までとは言わない。複雑な問題に対してそう過激の言葉は慎まなければ悪いが我々の開化の一部分、あるいは大部分はいくら己惚れて見ても上滑りと評するより致し方がない。
しかしそれが悪いからお止しなさいというのではない。事実やむを得ない、涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならないというのです。
また、「艇長の遺書と中佐の詩」という随筆では、広瀬大佐が残した漢詩についてきわめて厳しく批判している。
艇長の遺書と前後して新聞紙上にあらはれた広瀬中佐の詩が、此遺書に比して甚だ月並なのは前者の記憶のまだ鮮かなる吾人の脳裏に一種痛ましい対照を印した。
露骨に云へば中佐の詩は拙悪と云はんより寧ろ陳套を極めたものである。吾々が十六七のとき文天祥の正気の歌などにかぶれて、ひそかに慷慨家列伝に編入してもらひたい希望で作つたものと同程度の出来栄である。文字の素養がなくとも誠実な感情を有してゐる以上は(又如何に高等な翫賞家でも此誠実な感情を離れて翫賞の出来ないのは無論であるが)誰でも中佐があんな詩を作らずに黙つて閉塞船で死んで呉れたならと思ふだらう。
…
其詩は誰にでも作れる個性のないものである。のみならず彼の様な詩を作るものに限つて決して壮烈の挙動を敢てし得ない、即ち単なる自己広告のために作る人が多さうに思はれるのである。其内容が如何にも偉さうだからである。又偉がつてゐるからである。幸ひにして中佐はあの詩に歌つたと事実の上に於て矛盾しない最期を遂げた。さうして銅像迄建てられた。吾々は中佐の死を勇ましく思ふ。けれども同時にあの詩を俗悪で陳腐で生きた個人の面影がないと思ふ。あんな詩によつて中佐を代表するのが気の毒だと思ふ。
そこまで言うのかと驚くほどの厳しい言葉である。
広瀬大佐は、同時代から太平洋戦争の時代にかけて神話化された人物である。また、「坂の上の雲」は、明治時代を建国神話として神話化した作品である。しかし、夏目漱石は、自らの同時代をこれほどまでに厳しい目で見ていた。
しかし、彼は決して愛国者ではなかった訳ではない。英国に留学した時には、日本人として西洋の文学研究を乗り越えた一般的な文学論を創り上げようとして「文学論」を書いた。結局、その試みは失敗してしまったけれど。また、鈴木三重吉あて書簡では、文学に対しては 「死ぬか生きるか、命のやりとりをするような維新の志士のごとき烈しい精神で文学をやってみたい。」と語っている。「坂の上の雲」を見ることだけが愛国的な訳ではない。
「坂の上の雲」も、主人公の三人に対して夏目漱石を対比することでより深みをましただろうと思う。しかし、そうしたら、「建国神話」たる資格を失い、また、あれほどのベストセラーにならなかっただろうと思う。
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