多言語環境のなかの日本文学

もともとは、英語版ウェブログ(http://goo.gl/DO0oi)に書いたエントリーだったけれど、わりと評判がよかったので、日本語に訳してみた。
最近、「英文学」に関するエントリーを書いた(http://goo.gl/hnj3B)。そのなかで、英文学を専攻しているという大学院生と「読書メーター」(http://goo.gl/ZsAG)でメッセージをやりとりして、「英文学」は「英国の作家の文学」なのか、「英語で書かれた文学」なのか疑問に感じたと書いた。その後、彼女からメッセージを受け取った。彼女が言うには、「英文学」は基本的には英語で書かれた文学を意味しているという。
現在、英文学の作家の出自は非常に多様で、その多様性が英文学に豊穣さをもたらしている。例えば、インド出身のサルマン・ラシュディ、トリニダッド・トバゴ出身のV. S. ナイポール、日本出身のカズオ・イシグロなど。しかし、英国の植民地だったアイルランド出身のジェイムス・ジョイス、ロシアからの亡命者のウラディーミル・ナボコフポーランド出身のジョセフ・コンラッドのことを考えれば、英文学が持つ多様性は今に始まったわけではないことに気がつくだろう。
現在、日本文学においても、リービ英雄楊逸など日本語の非母語話者の作家がいる。しかし、魯迅も日本語の作品を書いていたから、日本語においても日本文学の多様性は今に始まったことではない。
明治時代に日本近代文学が成立したとき、小説家の多くは西洋の言語に堪能だった。夏目漱石は小説を書き始める前は、英文学の研究者だった。森鷗外はドイツ語、フランス語に堪能でヨーロッパの詩の翻訳で有名である(彼の小説のなかには、外国語が突然使われていて、読者としては困惑することが多い)。現在では伝統的な日本の小説(いいかえると、古臭く感じられる小説)を書いていると思われている尾崎紅葉も、多くの西洋の小説を読んでおり、そのプロットを彼の小説に使っている。
明治時代以前から日本文学には詩や物語は存在したけれど、近代小説はなかった。だから、彼らは西洋文学を研究し、日本近代文学と近代の散文を作りあげて行った。
最も早い時期の日本近代の散文は二葉亭四迷によって書かれたものだと言われているが、それは、ツルーゲーネフの短編「あひびき」の翻訳だった。彼は日本語で小説を書くことに困難を感じており、まずはロシア語で書き、それを日本語に翻訳していた。それでも、二葉亭四迷の初期の小説(例えば「浮雲」(http://goo.gl/4EpyG))と「あひびき」(http://goo.gl/KDfQD)の翻訳を読み比べると、現代の目から見ると「あひびき」の翻訳の方がはるかに自然に感じられる。
夏目漱石は英文学、漢籍、日本古典文学に通じていた。そして、ロンドン留学中に、英文学と漢籍の両方を説明できる普遍的な「世界文学」の理論を構築しようとした。結局、その試みは失敗したけれど、彼は日本語で書かれたもの、実は「世界文学」の小説を書くことを意識していたのだと思う。
日本近代文学と散文は西洋の言語に深く影響されている、言い換えれば、西洋の言語に基礎を置いているともいえる。日本文学、日本語を考えるとき、外国語からの影響を無視することはできない。
現在でも、日本文学は海外の文学、外国語と関係を持っている。村上春樹アメリカ文学に深く影響されている。彼の処女作「風の歌を聴け」は、まるでカート・ヴォネガットの翻訳のようだ。現在、彼の小説はさまざまな言語への翻訳を通じて、世界中の文学に影響を与えるようになった。
「世界文学」を目指していた夏目漱石が、英文学や漢籍から吸収し耕した近代日本文学という土壌から、村上春樹という果実が生まれ、さまざまな国の言葉への翻訳を通して、「世界文学」を実現した。
また、多和田葉子は同時に日本語とドイツ語で小説を書いている。彼女は、そうすることによって、新しい日本文学とドイツ文学を作り上げている。
同じことはその他の言葉でも起きていると思う。ロシア革命以前、ロシア貴族はフランス語を話し、フランス文学を読んでいた。私はロシア文学とロシア語の歴史は知らないけれど、フランス文学、フランス語はロシア文学、ロシア語に影響を与えていたのだと思う。ロシア文学、ロシア語が日本文学、日本語に影響を与えていたように。そして、ドストエフスキートルストイ、チェホフなどのろ紙文学は、翻訳を通じて世界中に広まった。
言語はお互いに境界を超え、文学は基本的には多言語なものだ。

二葉亭四迷全集 第2巻

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風の歌を聴け (講談社文庫)

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浮雲 (新潮文庫)

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