日本近代文学の黄金時代と日本近代散文の成立

水村美苗は「日本語が亡びるとき」で次のように書いて、かなり批判された。

 …それは、日本に日本近代文学があった奇跡を奇跡と命名する勇気を私についに与えてくれた。だが、そお奇跡はそのまま喜びに通ぜず、その奇跡を思えば思うほど、ふだんからの悪癖に近い「憂国の念」がいよいよ私の心を浸していった。
 日本近代文学が存在したという事実そのものが、今、しだいしだいに、無に帰そうとしているのかもしれない…。

…過去の遺産ゆえ、日本文学から、現実にはもうありえない高みを期待してしまうのである。今、「文学」として通っているものの多くが、過去の遺産ゆえに、「文学」としてまかり通ってしまっているという事実にいつまでも慣れないのである。そして、それと同時に、何かが日本文学におこりつつあるのを―ひょっとすると日本文学が、そして日本語が「亡び」つつあるのかもしれないのを感じている。

 もちろん、今、日本で広く読まれている文学を評価する人は、日本にも外国にもたくさんいるであろう。私が、日本文学の現状に、幼稚な光景を見出したりするのが、わからない人、そんなことを言い出すこと自体に不快を覚える人もたくさんいるであろう。実際、そういう人の方が多いかも知れない。…この本は、この先の日本文学そして日本語の運命を、孤独の中でひっそりと憂える人たちに向けて書かれている。そして、究極的には、今、日本語で何が書かれているかなどはどうでもよい、少なくとも日本文学が「文学」という名に値したころの日本語さえもっと読まれていたらと、絶望と諦念が錯綜するなかで、ため息まじりに思っている人たちに向けて書かれているのである。
(pp56-59)

自分の読書経験を振り返ってみると、若い頃はいわゆる「文学作品」はほとんど読んでいなかった。読むとしても、翻訳された外国文学で、日本文学は古代、中世、近世、近代を通じて目を通したことすらなかった。
なぜか、30歳になってから、突然日本近代文学に目覚めて、二葉亭四迷森鴎外尾崎紅葉に始まり、日本近代文学の始まりから歴史をさかのぼって読み始め、昭和初期の頃まで体系的に読んだ。戦後文学になるとそろそろ息切れがして、断片的に読んだ。まあ、日本近代文学の代表的な作品はあらかた読んだ。
率直に言って、水村美苗が書いているように、明治後期から大正前期が、日本近代文学の黄金期だと思う。もちろんそれ以降もいい作家はいるけれど、森鴎外夏目漱石谷崎潤一郎たちに並ぶ巨人はついに現れなかったと思っている。
もちろん、今も昔もつまらない小説はたくさんあって、昔のつまらない小説は入手困難になり、過去の作品は淘汰に残ってきたものだけが入手可能になるから、すばらしい作品だけが書かれていたというような錯覚は生じると思う(明治のころの当時の流行小説を読むと、水村美苗が「文学」という名に値しない小説がいつの時代にも量産されていたことはよくわかる)。
また、現在の日本においても、限られてはいるけれど、村上春樹小川洋子のように後世に残りうる小説を書いている人もいると思う。
しかし、日本近代文学を代表する作品の多くはその時代に書かれている。もし、日本近代文学でこれ一作を選べと言われれば、「細雪」を挙げるが、将来これを凌駕する小説が書かれるとは信じられない。
水村美苗は普遍語としての英語の地位の向上と、地域語としての日本語の地位の低下にその原因を求めている。確かにそれも理由の一つかもしれないけれど、その当時の日本近代文学には奇跡的な作品を生み出す条件がたまたま揃っていたからではないかと思う。
「ロックの死」(http://goo.gl/u1qqt)の中で言及したけれども、稲本が書いているように(id:yinamoto:20110502)、「ビートルズの時代」には「巨人」と呼べるミュージシャンがいたけれども、それ以降は小粒になっている。それは、「ビートルズの時代」には手付かずの未開の荒野が目の前に広がっていたけれど、それ以降のミュージシャンの仕事はニッチを開拓するか、過去の遺産を再編集するかしかなくなってしまった。
初期の日本近代文学者たちは、そもそも日本語による「小説」というジャンルを作るとか、近代の日本語による散文を作るとか、極めて根本的で大きな仕事に取り組んでいた。誰も書いたことも読んだこともない作品を書いていたという意味では、鴎外も漱石も前衛作家だった。鴎外は思いのほか小説の量は少ないけれど、「舞姫」から最晩年の史伝まで時系列で読むと、文体も形式も変化している。また、漱石も中期以降の新聞小説のスタイルが固まるまでは、短期間で非常に多様なスタイルの小説を書いている。鴎外の史伝や漱石の「吾輩は猫である」は、現代の目から見ても小説という枠からはずれかねないようなユニークな作品で、前衛の時代の息吹を感じさせてくれる。
「植民地文学」としての日本文学(http://goo.gl/w6HrA)の中で書いたけれど、現代の「普遍文学」としての英文学にも、ナイポールラシュディ、イシグロといった多様な出自の作家がおり、それが英文学を活性化させている。村上春樹は日本語で書いているけれども、翻訳を通じてそのなかに参加していると思う。
初期の日本近代文学の作者は、きわめて多様な言語、文学に触れていた。坪内逍遥は、江戸時代の勧善懲悪を否定して「当世書生気質」を書いた訳だけれども、若い頃は貸本屋から借りた読本に読みふけっていたと回想している。逆に言えば、勧善懲悪の物語に浸っていたからこそ、そのアンチテーゼを書いたということになる。漱石はあまり江戸期の文学は好んでいなかったようだが、漢籍の造詣は深く、自らも漢詩を書いていた。尾崎紅葉井原西鶴を再発見して、自らの創作に取り入れていた。谷崎潤一郎は日本の古代の文学を取り入れている。鴎外は中国の古典だけではなく、白話小説も読んでいたようだ。
その一方で、初期の作者たちは皆西洋の言語に堪能だった。漱石は日本の英文学者の草分けであるし、鴎外は同時代的には創作よりはむしろ翻訳で評価されていた。今から見ると純日本風に見える尾崎紅葉も西洋の小説を翻案していたことで知られている。谷崎潤一郎も英語に堪能だった。
そういう多様な言語、文学の環境の中で、日本近代文学、散文は創り上げられていった。もちろん初期にはさまざまな試行錯誤があり、そのすべてが名作である訳ではないけれど、その時期でしかないおもしろさがあると思う。そして、そのような実験の成果を踏まえ、日本の前近代の文学、漢籍白話小説、西洋の文学を集大成したのが「細雪」だと思う。このような奇跡的な作品を日本近代文学が再び生み出すのは難しいだろう。
日本近代文学、近代散文が作り上げられる過程で、大きな代償も支払っている。日本近代文学の初期の作者以降の世代は、前近代の日本文学や漢籍に親しみを持たず、文化的な断層ができてしまった。私自身も、日本近代文学を読むには苦労はないが、江戸期の文学ですら詳細な注釈がないと読むことができない。漢籍はもちろん読めない。
日本の近代散文には「言文一致」というスローガンがつけられているため、あたかも口語と散文を一致させることが目的のような印象を与えているけれど、口語と散文が完全に一致することはありえないし、実際に近代散文が文字通り「言文一致」している訳ではない。おそらく、西洋の言葉を翻訳できる散文として、日本の近代散文は成立したと思う。"Smells Like English Sprit"(http://goo.gl/tZTnl)で書いたが、二葉亭四迷の初期の散文は、チェーホフの翻訳によって成立した。
日本は近代化のために、それまでの教養を支えていた言葉と決別し、西洋の言語を翻訳しうる近代散文を手に入れ、そして、近代文学が成立した。
そのように考えると、アメリカ文学を読み込み、すくなくとも初期はその翻訳のような小説を書いていた村上春樹は伝統的な日本近代文学の作家なのかもしれない。日本近代文学を再生させる道の一つとして、多和田葉子のように日本語と外国語で同時に書く作家やリービ英雄楊逸のように非日本語母語話者で日本語で文学を書く作家に可能性を感じている。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

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細雪 (上) (新潮文庫)

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