浮遊感

自分で言うのもなんだけれども、それなりに名の通った進学校に通い、いわゆる有名大学を卒業して、大企業ではないけれどもまずまず有名企業で勤続20年になる。おそらく、経歴だけを見れば、まるで日本社会の主流にいるような印象を与えると思う。実際、客観的に見ればそういった側面があることは否定できない。
しかし、自分の主観では、小学校の頃から20年間も勤めたこの会社の中でも、自分が「浮いている」という感覚はずっと持ち続けている。おそらく、大学時代が同級生といちばんしっくりときていた時期だったけれど、逆にしっくりしていた同級生たちがみな揃って落ちこぼれだったから、大学からは「浮いていた」といより「沈んでいた」のだと思う。
高校の同級生で、とある官庁にキャリア官僚として就職した人がいる。久しぶりに地下鉄のなかで会った時、あまりにステレオタイプ的な高級官僚臭を漂わせていて、一瞬本人と認識できなかったことがあった。世の中には、これだけ自分の職場と一体化できる人もいるんだなと、不思議に思った。
もちろん、どんな人にも(その高級官僚の彼氏も含め)「浮いている」という感覚はあると思う。周囲からどれだけ同化しているように見えても、環境と自分が完全に一致しているという人はいないだろう。
英語版ウェブログの方に、「空気を読む」という言葉をテーマにして記事を書いた("Reading the Air" http://goo.gl/Tuwkq)。「空気を読む」という言葉に象徴されているように、日本の社会には暗黙のうちに同調を強制する圧力が強いから、それだけ「浮いている」ということに悩む人も多いだろうし、場合によっては「浮いている」ことに罪悪感を感じてしまう人も多いだろうと思う。
しかし、自分はあえて「空気を読まない」ようにしているし、「浮いている」ことを気にしないようにしている。「空気を読む」とか「浮いている」ことを恐れるのは、自分の精神衛生上よくないし、また、さらに言えば自分の所属している組織にとってもいいことではないと思う。
小学校から高校までの時代は、テクニックとしての社交性に乏しかったからそういうこと原因で人とあまり親しくなることができなかった。今は、仕事上、社会上必要があれば、社交ができるようになったけれど、別に親しい人が増えた訳ではない。結局、社交性が根本的な問題だった訳ではなく、そもそも親しい人を増やそうという気持ちがないということに気がついた。
そもそも、両親の教育方針は、自分で考えるということを重視して、周囲と協調することに重きをおいていなかったように思う。例えば、なにか買って欲しいものがあったとき、誰か友だちが持っている、という理由では絶対に買ってくれなかった。私自身が自分にとっての理由を説明して、それを納得してもらったら買ってもらえるという感じだった。
このウェブログを読んでくれている人にはよくわかってもらえると思うけれど、自分の趣味関心はエッジが立っているというか、狭くて深くて、なかなか周囲の人と共有することができない。共有したいという気持ちはあるけれども、しかし、実際問題共有することはなかなかできないし、あまり無理して押し付けるのも申し訳ないと思い、結局、自分のペースで好きなことをやっていることが多い。周囲からどのように見えているのかよくわからないけれど、自分としては自分なりに自分の好きなことを自分のペースでやっているのが楽しいし、結果として共有してもらえる人があまりいなくても仕方ないと思っているし、無理してそれを広めようともあまり考えていない(唯一の例外がつれあいで、だから結婚したのだと思う)。
たまに、自分のウェブログのいちばんのファンは自分だと思うとか、自分のウェブログを読み返すとおもしろいと思うとか書いているけれど、決して自画自賛なのではなく(多少は自画自賛だけど)、自分の興味関心を完全に共有できる人は自分自身しかいないと言いたいのである。
結果として、「空気を読まず」、「浮いた」人生を送っているけれど、それはそれでまずまず社会生活を過ごすことができているし、それでいいのかなと思っている。
しかし、自分の趣味関心を表現することができなかったことは潜在的な意味でストレスになっていたのだと思う。インターネットという表現手段を得てから、熱心にウェブログを書き続けてもう十数年になる。インターネットに書いていると、全面的に趣味を共有できるという人はいないけれど、部分的には理解してもらえる人もいるということがわかって、日常生活ではなかなか得ることができない反応を得ることができる。こういうメディアがなかったら、自分は今どうやって生きているのだろうかと不思議に思ったりする。
最近、英語でウェブログを書くようになって、海外に目を向ければ自分に共感してくれる人がより多いということに気がついた。
自分の属している狭い「世間」からはいつも浮遊感を感じているけれど、世界に目を向ければ、それほど浮いていないのかもしれないと想ったりもしている。
日本の社会の同調圧力にストレスを感じたり、スポイルされている人も多いと思うけれど、無理して同調しなくても生きていけるし、自分と共感できる人もこの広い世界の中には必ずいるのだと思う。