西洋近代思想についての個人的な覚書

今、カール・マンハイムイデオロギーユートピア」を読んでいる。
このなかで、マンハイムイデオロギーという概念の歴史についてまとめており、その部分を読んでいたら、西洋近代思想についてもやもやしていたところが整理されたような気になったので、個人的な覚書を書いておこうと思う(単に、私個人が腑に落ちたという話なので、特に目新しいところはないと思うけれど)。
中世ヨーロッパにおいて、「真実」や「善」の存在は、キリスト教によって保証されていた。もちろん、神の言葉(聖書)にすべてが明確に書かれている訳ではないから、その解釈をめぐってスコラ哲学的な議論はあったけれども、最終的な「真実」や「善」の存在自体を疑問視することはなかった。
ルネサンス以降、神が直接的に「真実」や「善」を保証すると考えられなくなった時、それに代わりうるものとして、人間の理性が想定された。デカルトの「我思う故に、我あり」という発想を、平たく言えば「まともな人が、先入観なしに論理的に考えた結果は、一致するはず」ということだと思う。個人の主観を出発点にして演繹していけば、「真実」や「善」について、理性のある人間同士であれば共通の結論に至るという前提があったと思う。カントは実際に「倫理」を演繹してみせた。民主主義の思想も基本的には理性のある人間、すなわち市民への信頼という前提に基づいている。
そして、19世紀半ばから20世紀に至る思想の歴史は、基本的にはこの個人の理性を「真実」や「善」の基礎とおくことへの懐疑を軸にしていたと思う。その意味では、マルクスフロイトは最重要な思想家である。マルクスは生産関係によって「真実」や「善」すらも決定され、ブルジョアジーの考える「真実」や「善」はその階級の利害と密接に結びついたイデオロギーであると主張した。フロイトは人間の理性が、意識の外にある無意識によってコントロールされていると主張した。いずれも、「理性のある人間同士であれば共通の結論に至る」という前提を否定している。
マンハイムは、マルキシズムではプロレタリアート階級以外の思想をイデオロギーであると批判するが、当然、プロレタリアートの思想もイデオロギーの一種であると指摘している。
さらに、レヴィ=ストロースは未開社会のフィールドワークによって、近代の理性とは異なる「野生の思考」を見出し、マルクスフロイトも含む近代西洋思想全体を相対化した。マルクスの社会的な思想を、個人としての実存へ「アンガージュマン」という概念で接続したサルトルレヴィ=ストロースは厳しく批判した。確かにアマゾンの奥に住むナンビクワラ族にはマルキシズムへのアンガージュマンにはなんの縁もないけれど、人間としての価値がないという訳ではないだろう。
そのようにサルトルを批判するレヴィ=ストロースが「悲しき熱帯」でマルクスフロイトに共感しているという言葉を読んで不思議に思ったけれど、近代理性への根源的な批判という意味では、この二人がレヴィ=ストロース先行者だということはよくわかる。
フーコーは前近代と近代の歴史を比較することでエピステーメーという概念を、トーマス・クーンは科学史の立場からパラダイムという概念を導き出し、やはり、普遍的な理性へ懐疑を突きつけた。
しかし、問題はここで終わりになる訳ではない。神も理性もないとするならば、代わりに「真実」や「善」を保証するものはあるのだろうか。いうまでもないが、説得的に「真実」や「善」を保証するものは提示されていない(宗教はその信者に対して「真実」や「善」を保証しているのかもしれないが、現代社会においては宗教を超えた普遍性が求められている)。それならば、いくつも並列する「真実」や「善」は統合されることなく、並列するままで、共約不可能という結論に至るのだろうか。相対主義虚無主義から脱出することはできないのか、それとも、そもそも相対主義虚無主義から脱出する必要すらないということか。
マンハイムは、相対主義を否定する相関主義という概念を提示しているが、正直に言って私にはうまく理解できない。ある固定的な「真実」や「善」がある訳ではなく、それを探求する弁証法的なプロセスを指しているようにも思うが、よくわからない。
もともと民主主義は、人間の理性を基礎においていたけれども、もし、その理性に基礎を置けないとすると、単なる利害関係の調整ということになってしまわないだろうか。ルソーなどが想定していた市民による民主主義から、オルテガが批判するような大衆による民主主義への変化というのは、この人間への理性への信頼の有無ということを意味しているのだろう。「社会契約論」を読むと、民主主義の成員全体の意志を代表した「一般意志」という用語がでてくるけれども、なぜ、利害が対立する成員の間で「一般意志」が成立しうるのか疑問に思っていたが、デカルト、カント的な理性的な市民を前提とすれば「一般意志」が成立するということになるのだろう。その意味では、ルソー的な「社会契約論」は現代的な大衆民主主義においては適用できないということになる。
また、社会的に相対主義虚無主義を徹底するとマキャベリズムに至るように思う。実際、ある程度の共通理解が成立するユニットとして国民国家があり、そのなかでは民主主義がなんとか運営されているけれども、国民国家同士の国際関係においてはマキャベリズム的なパワーポリティクスが実践されている。
理性への懐疑は、20世紀半ばまでに行き着くところまでいったように思う。
その意味で、確固たる理性への信頼がないなかで、共通の善について考察したロールズの「正義論」の歴史的意義は大きいと思う。
しかし、21世紀において、思想はどの方向に向かうのか、私にはさっぱりわからないけれど。

イデオロギーとユートピア (中公クラシックス)

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方法序説 (岩波文庫)

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実践理性批判 (岩波文庫)

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マルクス・エンゲルス 共産党宣言 (岩波文庫)

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精神分析入門 (上巻) (新潮文庫)

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精神分析入門 下 (新潮文庫 フ 7-4)

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悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

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悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)

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野生の思考

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存在と無〈1〉現象学的存在論の試み (ちくま学芸文庫)

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監獄の誕生―監視と処罰

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狂気の歴史―古典主義時代における

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科学革命の構造

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社会契約論 (岩波文庫)

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大衆の反逆 (中公クラシックス)

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正義論

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