昨日の夜のTVニュースで経団連と全農の会長がTPP交渉への参加問題についてまったく噛み合わない会話をしている映像を見ていやな気持ちになった。
私自身はTPP参加がさほどの問題とも思わないし、さっさと参加すればいいと思っているから、立場としては経団連の会長に近い。しかし、経団連の会長の主張を聞きながら、感じが悪いなと思った。
結局、経団連の会長は、経団連に所属している企業の利益になるからTPP交渉に参加すべしと主張していた。その意味では、農協の会員の農家の不利益になるからTPP交渉に参加すべきではないと主張している全農と同じで、自らの利益を確保したいと言っているに過ぎない。これでは、経団連に所属している企業以外の立場の人からは反発されるだろうし、全農を説得できるはずもない。
私は、この民主主義の社会で何かを主張する場合、自らの利益を主張するための意図的な偽装であったとしても、「国全体としての利益の増進になる」という形式をとるのが「お作法」だと思っている。自らの利益をむき出しで主張しても、他の人を説得することはできない。
ちょうど、カール・マンハイムの「イデオロギーとユートピア」を読み終わったところだった。この本は題名通り「イデオロギー」について扱っている。マルクスは、一見理想主義的に見える「自由主義」の主張は、ブルジョアジーの利害を反映した「イデオロギー」に過ぎないと看破した。「自由主義イデオロギー」は、ブルジョアジーが意図的に虚偽の主張をしているわけではなく(とはかぎらず)、彼ら自身は純粋に善意であっても、自らの階級に拘束された認識、発想しかできない。しかし、経団連も全農も自らの利害を隠して「イデオロギー」として主張することすらせず、ただただ自らの利害を主張するだけである。
マスメディアを見ていると、むき出しの利害の主張の以外は、アメリカの陰謀論のような、ふつうだったら公言することが憚られる暴論が横行していて、いったいどうなっているのだろうかと不思議に思っていた。
ふつうに考えればこうなるだろうと思って、この問題について二つ記事を書いた。
- 「TPP交渉参加問題とサブガバメント」(id:yagian:20111105:1320438905)
- 「TPP交渉参加問題とサブガバメント(2)」(id:yagian:20111105:1320438905)
相変わらずマスメディアでは暴論が横行しているけれど、インターネットを見ると冷静な議論をしている論者もたくさんいて少々安心した。
- 出口治明「TPP反対派の意見は根拠に乏しい。交渉への参加は実益で判断すべき。」(http://goo.gl/FhP8J)
- 櫻田淳「TPP論議にみる主体性の欠落」(http://goo.gl/n0AfK)
- 片岡剛士「TPPを考える」(http://goo.gl/2sNPZ)
- 若田部昌澄「TPPの憂鬱 ―― 誤解と反感と不信を超えて」(http://goo.gl/PC73b)
最後の若田部先生のコラムでは冒頭に次のように書かれている。
しかし、議論が熱くなればなるほど、TPPについて論じることは憂鬱でもある。議論があまりに事実誤認に基づいていること、あまりに多くのことを混同していること、あまりに対立激化していることなどなど、理由は多い。もっとも憂鬱とばかりも言っていられない。もう少し説明をしてみよう。
まったくその通りで、この成り行きを見ていると憂鬱になる。しかし、憂鬱になっていばかりも言ってられない。
カール・マンハイムが「イデオロギーとユートピア」を書いた時期は、前述のように市民による民主主義、自由主義という理念がマルクスによってイデオロギー暴露にさらされ、マルキシズムとファシズムが左右の両翼で勢力を強めており、社会を統一することが難しい政治情勢になっていた。
マンハイムは、マルキストはブルジョワジーの思想を彼ら自身の階級に拘束されたイデオロギーに過ぎないと暴露したのと同様に、マルキシズム自体も一種のイデオロギーであると指摘した。
このことは、先日のブログに書いた。(「西洋近代思想についての個人的な覚書」id:yagian:20111107:1320638375)
あらゆる政治的な認識、思想が政治的、社会的に拘束されたイデオロギーであるとすれば、それを統合する民主主義体制は成立しうるのだろうか。マンハイムはそれに対する回答も書いているけれど、かなり心もとない。
複数の「イデオロギー」が対立するなかで、それを綜合するには
…歴史を前向きにつくってゆく政治的態度のうちに求められなくてはならない。しかもその場合、一方では、これまで蓄積されてきた文化財や社会的エネルギーを、できるだけ多く保持しながら、同時に他方では、新しい状況がいっそう有機的にあますところなく自己を実現し、その変革力を存分に発揮できるようにするのが大切である。
こいう態度をとる者は、歴史的な今について、特別に注目している必要がある。すなわち空間上の「ここ」と時間上の「今」とを、歴史的、社会的意味で、いつも目の前に据えておかなければならない。さらに場合場合に応じて、何がもはや必要ないか、何がまだ可能なのかをわきまえていなければならない。
このようないつも実験的な態度、社会的な敏感さを養い、ダイナミズムと全体性をめざす態度は、中間的な位置にある階級によってつちかわれるものではない。むしろ、比較的階級色をもたない、社会的空間のなかでそれほど固定した地位をもたない階層によってつちかわれる。この点に注目しながら歴史を観察してみればなかなか含蓄深い洞察が得られるであろう。
[アルフレート・ウェーバーの用語でいえば]このはっきりと固定した地位をもたない、比較的階級色の薄い階層は、社会的に浮動するインテリ層と呼ばれる。
(pp276-277)
上記で紹介したTPP交渉参加問題について冷静な議論をしている論者たちは「社会的に浮動するインテリ層」ということなのかもしれない。
マンハイムはこのようにも書いている。
…現代社会では、知識人政治は独立したものとしては不可能だということが判明するだろう。現代は利害関係に基づく立場がますます露骨に首をもたげ、大衆行動がそれを押しやって特定の方向へ衝き動かしていゆく時代である、こういう歴史の段階では、これとは別の方向づけをもった政治行動は、ほとんど不可能といっていい。もっとも、だからといって知識層は、構造上の特殊な位置に基づいて、全体としての歴史の動きにとってかけがえのない意味をもった仕事を果たすことはできるのであって、それまで否認されるわけではない。
しかしその仕事とは、何よりもまず、歴史のさまざまな出来事のなかで全体的な方向づけができるような地点を見出すこと、周囲のあまりにも暗い夜のなかで、番兵としてめざめていることにある。
(p286)
現代の日本社会は、マンハイムの階級闘争が熾烈だった時代とは状況は異なっているが、「利害関係に基づく立場がますます露骨」な状況になっているし、「まともに考える」知識人政治はやはり不可能である。
3.11以来、民主主義、日本の民主主義について考えているけれど、「周囲のあまりにも暗い夜のなかで」憂鬱になってしまう。しかし、めげないで考え続けていこうと思う。
- 作者: カールマンハイム,Karl Mannheim,高橋徹,徳永恂
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2006/02
- メディア: 新書
- 購入: 1人 クリック: 34回
- この商品を含むブログ (12件) を見る