最近、カール・マンハイム「イデオロギーとユートピア」、カール・ポパー「歴史主義の貧困」を読んだ。
マンハイムは知識社会学の祖として、ポパーはハイエクの盟友として、また、まっとうな保守主義者として共感している。しかし、困ったことに(別に、ほんとうには困りはしないけれど)、カール・ポパーは「歴史主義の貧困」のなかでマンハイムと彼の知識社会学を批判している。二人の思想の両方に共感している私としては、二人の関係を整理してみたいと思う。
「歴史主義の貧困」は、対象はマルキシズムに限定されている訳ではないけれども、主としてマルキシズムの歴史観について批判している。そして、マンハイムの知識社会学もマルキシズムと歴史観、方法論を共有するものとして批判されている。
私がマンハイムの知識社会学に共感するのは、すべての人の認識、思考は、その人自身の社会的な存在に拘束されている、というコンセプトである。ミシェル・フーコー、レヴィ=ストロース、エリック・ホブズボウム、トーマス・クーンを読んだり、また、そこまでおおげさなことをしなくても、人々の行動、言動を観察すれば、自分と他人の間で思考以前に認識自体が違っており、それはそれぞれの人の存在のあり方に拘束されている、ということに気がつくと思う。
マンハイムの知識社会学のアイデアの源は、もちろん、カール・マルクスにある。マルクスは、デカルト、カント、ルソーと繋がっていく大陸ヨーロッパの主知主義的な民主主義の思想に対し、普遍的な思想などではなくブルジョアジーという階級に拘束された「イデオロギー」に過ぎないと批判、「イデオロギー暴露」をした。しかし、マンハイムはそこにとどまらず、主知主義的な民主主義の思想がブルジョアジーのイデオロギーであるならば、マルキシズムはプロレタリアートのイデオロギーに過ぎないと主張した。つまり、マルキシズムは自らの立場を正当化し「ブルジョアのイデオロギー」の欺瞞性を批判したが、マンハイムはブルジョアジーの思想がイデオロギーならば、プロレタリアートの思想もイデオロギーなのだと両者を相対化した。「イデオロギーとユートピア」のなかで、カール・マンハイムは、前者の「イデオロギー暴露」を部分的イデオロギー、後者の相対化された立場を全体的イデオロギーと呼んでいる。
たしかに、マンハイムは、認識、思想を拘束する社会的な条件として、主に階級を想定していた。それは、マルクスからの影響ということもあるだろうし、また、彼が生きていた社会条件、マルキシズムとファシズムが勃興し、ブルジョアジーの民主主義が左右からの批判にさらされていたという時代背景もあるだろう。しかし、「部分的イデオロギー」から「全体的イデオロギー」に到達することで、マンハイムの知識社会学の射程は大きく広がったと思う。「部分イデオロギー」の段階では、あくまでもプロレタリアートの思想であるマルキシズムの敵対関係にある思想への批判にとどまっていたけれど、「全体的イデオロギー」の段階に至れば、認識、思想を拘束する条件は階級にとどまらない。実際、知識社会学的な発想は、その後、さまざまな形で展開して、批判の対象となる認識、思想は、その幅と深さを広げていった。
スターリン時代のソビエト連邦では、社会科学だけではなく、自然科学も(もちろん芸術も)イデオロギーであるとされ、メンデルがブルジョア科学というレッテルをつけられて、獲得形質が遺伝するというルイセンコの学説が支持され、反対派の科学者が粛清されるということがあった。「科学」の方法論には普遍性があると考えるポパーにとっては、このような現象は、知識社会学的な発想の限界、問題点と映るかもしれない。しかし、マンハイムが生きていたとすれば、これはあくまでも「部分的イデオロギー」であって、「全体的イデオロギー」ではないと否定したと思う。
ポパーは「科学」の方法論には普遍性があり、その方法論は対象が自然でも社会でも同じように適用できると主張する。しかし、その「科学」の方法論は、デカルト、カント的な主知主義的なものではない。その意味では、やはりポパーもマンハイムと同様に主知主義の批判者である。
古典的な「科学」観では、観察に基づき法則が帰納され、さらにその法則を支持する事象が観察や実験で得られれば法則が実証される。そして法則から新しい知見が演繹されることにより「科学」は進歩し、また、法則を利用して将来を予測することで社会的にも有意義な知識を提供できる。
しかし、ポパーは、法則は観測結果から帰納されるということと、法則が観察や実験結果から実証しうるということを否定する。いくらある法則を支持する実験結果が得られたとしても、将来的にはその法則を否定する実験結果が得られる可能性を否定することはできない。その意味で、法則はあくまでもその段階でもっとも確からしい仮説に過ぎないということになる。そして、ポパーは「反証可能性」という概念を主張する。ある命題が「科学」の対象となりうるのは、その命題が反証しうる可能性を持っていなければならない、ということである(もちろん、反証可能性の有無は、その命題が科学の対象となりうるかどうか、という基準であって、知的な思考、思想の対象としての意味をもたないということが主張されている訳ではない)。
例えば、月の裏側に関する仮説があったとする。ポパーの時代には月の裏側を観測する方法はなかったから、その仮説を反証する手段がなかった。つまり、反証可能性がないということになる。従って、月の裏側に関する仮説は科学の対象となりえない。しかし、現在では、人工衛星によって月の裏側の観測ができるようになり、反証が可能になり、科学的に意味ある仮説になったといえる。
ポパーはこの「反証可能性」に基礎を置く「科学」の方法論については、知識社会学が主張するようなイデオロギーではないと考える。また、マルキシズムの「社会科学」は、「反証可能性」がないという意味で「科学」ではないと否定される。また、「反証」が成立つためには、自由な科学者のコミュニティによってさまざまな仮説が検証されることが重要だとする。その意味で、政治的に介入によって科学者が粛清されたルイセンコ事件は科学からはもっとも隔たっているし、また、ポパーがマルキシズムを批判し、民主主義を支持する根拠にもなっているだろう。
しかし、ポパーのもう一つの批判、法則となりうる仮説は観測結果から帰納されない、という論点は、マンハイムの知識社会学と接続しうると思う。もし、観察から法則が帰納されないとすれば、どこからその仮説はもたらされるのか。クーンに尋ねればパラダイムという答えが帰ってくるだろう。その命題がポパーのいう反証可能性があり、また、自由な科学者のコミュニティによって検証されるのであれば、その命題自体が知識社会学的な意味で主張する人の社会的存在に拘束されていても問題はないし、現実の科学においても実際に拘束されている。どのような命題が科学の対象として取り上げられるか、という問題は、例えば、公的な研究費がどのような分野に重点的に配分されるか、といったきわめて政治的な要因によって影響を受ける。
最近の問題に引きつけていえば、日本で原子力工学が成立するのは、原子力開発を推進しようという政治的な判断に依存している。しかし、だからといってそのことによって原子力工学が直接「非科学的」だということにはならない。その命題が自由な科学者のコミュニティによって検証をされていれば、科学的であるといえる。逆に言えば、その科学者のコミュニティが自由ではなく、政治的な影響を受けているとすれば、科学的ではないということになる。いわゆる「原子力村」の問題をマンハイム、ポパー的に分析すればこのようなことになると思う。
歴史のきわめて大きな皮肉な事象と思うけれど、ポパーがマルキシズムには反証可能性がないから科学的ではないと批判したけれど、実際にはソビエト連邦という形でマルキシズムの妥当性を検証する壮大な社会実験が実施され、その結果としてポパーが批判していたマルキシズムの「歴史主義」、唯物史観、は「科学」的に反証されることになった。
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