悲しき南洋

最近、よく眠れるのは健康上いいことだけれども、いつも早朝にウェブログを書いているので、なかなか新しい記事を書くことができない。
英語版(http://goo.gl/J3DhM)と日本語版を交互に書いていることにしている。最近ではずいぶん慣れてきたけれど、それでも英語版の記事を仕上げるのには時間がかかる。そんなわけで、日本語版にはなかなか手が回らず、書きたいネタが溜まっていくばかりである。
さて、今日は中島敦「南洋通信」の話。
「日月記」で著名な中島敦は、太平洋戦争の直前の時期、南洋庁の入庁し、南洋の小学校向けの日本語教育用の教科書を作る仕事をするために、南洋に派遣されていた。「南洋通信」は、南洋からの書簡と南洋をテーマとした短編小説を集めた本である。
そのなかの「環礁ーミクロネシア巡島記抄ー」から印象的なところを引用したい。

…自分が旅立つ前に期待していた南方の至福とは、これなのだろうか?此の昼寝の目醒の快さ、珊瑚屑の上での静かな忘却と無為と休息なのだろうか?

「怠惰でも無為でも構わない。本当にお前が何の悔いも無くあるならば。人工の・欧羅巴の・近代の・亡霊から完全に解放されているならばだ。所が、実際は、何時何処にいたってお前はお前なのだ。…お前は島民をも見ておりはせぬ。ゴーガンの複製を見ておるだけだ。ミクロネシアを見ていおるのでもない。ロティとメルヴィルが画いたポリネシアの色褪せた再現を見ておるに過ぎぬのだ。そんな蒼ざめた殻をくっつけている目で、何が永遠だ。哀れなやつめ!」
「いや、気を付けろよ」と、もう一つ別な声がする。「未開は決して健康ではないぞ。怠惰が健康ではないように。謬った文明逃避ほど危険なものはない。」
「そうだ」と先刻の声が答える。「確かに、未開は健康ではない。少なくとも現代では。しかし、それでも、お前の文明よりはまだしも溌剌としていはしないか。いや、大体、健康不健康は文明ということと係わり無きものだ。現実を恐れぬ者は、借り物でない・己の目でハッキリ視る者は、何時どのような環境にいても健康なのだ。…」
(pp178-179)

そう、その通り。私に付け加えられることはもうない。