教えることと教えられること

最近、社内の勉強会でリーダーシップに関する報告を聞いた。
そのなかで、リーダーシップは「成果指向型」と「成長指向型」に大別できるという話があった。
「成果指向型」は最良の成果を求めるリーダーシップで、極論すれば人に対しては興味をもたないタイプである。当然、メンバーは疲弊しがちで、チーム内の雰囲気も決して良くない。短期的には成功できるけれども、中長期的な持続は難しい。
一方「成長指向型」はメンバーの成長に注力するリーダーシップで、チーム内の雰囲気はよくなり、短期的には成功と失敗を繰り返すが、中長期的には成長していく。
報告者が強調していたことは、「成長指向型」が正しいという訳ではなく、「成果指向型」も必要とされる場面もある。両者のバランスを取ることが重要だというということだった。
このことはよく理解できる。私はもともとプロジェクトリーダーの仕事をしていた。プロジェクトリーダーは、そのプロジェクトを成功させるためには「成果指向型」に重点を置くことになる。もちろん、ある組織で、専門性があるプロジェクトをマネージしているから、毎回まったく新しいプロジェクトのメンバーと仕事をする訳ではない。だから、メンバーの成長にまったく無関心ではないけれど、プロジェクトの成功に比重を置いていた。
例えば、メンバーの成長のためには、あえて失敗の可能性も考えながら難しいタスクを与えることがある。余裕のあるプロジェクトであれば、失敗した場合のバックアップも考えながらそのようなことができるけれど、人員も予算もぎりぎりのプロジェクトであれば、安全運転を優先する。メンバーの教育、成長の責任は基本的にはプロジェクトリーダーではなく、ラインのマネージャーが持っている。
現在はプロジェクトマネージャーの職から異動して、この10月からラインのマネージャーになった。そして、チームのメンバーが仕事を通じて成長する、ということを目標に掲げていろいろと工夫をしている。
私の所属しているチームのメンバーは、ほぼ同世代の人間が集まっている。自分も四十歳を過ぎて、最近はあまり成長に縁が無くなっていると感じていたから、「成長」というテーマを掲げたけれど、実現できるのか自分でも確信がなかった。
まずは、メンバーを観察し、コミュニケーションをすることから始めた。結局、自ら成長したいというモティベーションがなければ、成長するはずもなく、マネージャーとしての自分が「成長させたい」と力んだところで空回りするばかりである。その人のポテンシャルがある領域、やっていて楽しいと思える領域を見つけ出して、自律的に成長に取り組むような環境を整えようと思った。
毎年、会社の会計期の最初に個人別の目標設定をするのだけれども、その時、必ずひとつは「期初にはできなかったけれど、期末にできるようになること」を目標に加えるようにお願いした。メンバーと面談して、どんな目標を立てるのか、ずいぶん深く話をした。
最初は、そんなことを言われたことがないと戸惑っていたけれど、誰でも心のどこかに「成長したい」という気持ちはあるから、だんだんこんなことがしたいということをぽつぽつと語り始めた。このとき重要なのは、私の方からあなたはこういうことを目標にしなさい、というのではなく、あくまでも本人から目標を設定させるということだ。そうでないと自律的な成長にはならない。
とはいえ、実際に成長するものだろうかと私自身も半信半疑だった。しかし、2か月経って、メンバーの行動がほんとうに大きく変わって自分でも驚いている。もちろん、今までまったくできなかったことができるようになったという訳ではなく、ポテンシャルはあったのだけれども発揮する場面、環境、意志がなかったことをするようになったということだとは思う。しかし、行動が変化したということは、成長したということだと思う。何歳になっても、意識の持ち方で人間というのは成長しうるのだということを見て、感動している。
また、大きな発見があったのは、自分の行動も変化があったということだ。「教育」ということは、相互作用で、自分が相手を教え諭すという一方的な関係ではない。相手の行動が変われば、自分の行動も変わる。つまり、メンバーの成長を考え、促すということは、結果的には自分の成長を促すことでもある。また、メンバーの成長を実現するには、自分自身の行動を変え、一緒に成長する必要があるということも痛感した。最初は「指導する」というやや不遜な考えもあったけれど、今ではメンバーの成長についていくのが精一杯である。
プロジェクトマネージャーの頃は、メンバーのことを(自分も含め)プロジェクトを成功させるための「リソース」と考えていたけれど、今は共に成長する「仲間」だと思うようになった。
相手を変えるためには自分も変わらなければならないという相互関係は、コミュニケーションのあらゆる場面にあてはまるように思う。話は大きくなるけれど、福島第一原子力発電所の事故の前、国や電力会社は、原子力発電所の立地地域の住民やさらには国民全体に原子力発電所の必要性と安全性を広報していた。その広報の前提には、真実は自分の側が独占的に知っていて、無知な住民や国民を啓蒙するという前提があったと思う。そう指摘すると、当事者は多分否定すると思うけれど、住民や国民に広報をすることで、相手の考え方、行動を変化させることを通じて、自らの考え方、行動も変化すること、また、変化させなければならないということを認識していたとは思えない。一方通行のコミュニケーションを想定していて、相互作用を考えていなかったのだと思う。