哲学なき国:「一身独立して一国独立すること」

最近、不眠症が治ったのか、早朝に目がさめることがなくなった。いままで早朝にウェブログを書いていたけれど、それができなくなったので、なかなか更新がままならなくなってきた。週末に更新するのが精一杯かも。
さて、いま、明治初期の自由民権運動から戦前までの自由主義者、左翼の思想家、運動家の文献を読んでいる。福沢諭吉中江兆民幸徳秋水の三人には強く印象を受けている。
中江兆民喉頭癌で余命一年半という宣告を受け、「一年有半」「続一年有半」という本を書いている。そのなかで、その当時の政治を批判しているのだが、これが現在の日本政治にもそのまま当てはまるのである。

 政友会、星死して落莫の感を免れず。しかれども政友会の重なる部分を為せる自由党は、歴史古く地盤固く、かつ彼輩深くベンタム的利己学の実験に得る所ありて、ただ利禄これ図りて、復た人間羞恥の事あるを知らず。故に今後とても決して分裂等の憂あるべからず、小波瀾はあるいはあるべし、小内訌はあるいはあるべし、各派の競争はあるばし。しかれども政友会の力はまさにその大政党たる処に存して、分裂すれば双方共に損ありて益なきが故に、いはゆる内訌もキワドき所に至れば自然にやみて、相共に利を図り害を避くることをこれ務めて、他念なかるべし。而して世の利益一方に志すの徒は、漸次これに赴くべく、此処とかく遽に衰滅に帰するには至らざるべし。但その内容を為す所の人物は、大勲位を首とし他総務連中に至るまで、無気力、無志慨の人々なるを以て、ただ蠢々然相蕩撼し、茫々然歳月を空過して、既に国に益なく、また大に己に利するに至らずして、久しきを経て雲散霧消すべし。ああこれ政友会の運命なり、
(p34-35)

「大政党」であることが存在理由であった自民党は、分裂する利益がない。しかし、「無気力、無志慨」ゆえに、「久しきを経て雲散霧消すべし」。民主党も同じ運命をたどるのであろう。
なにゆえそうなるのか。

 わが日本古より今に至るまで哲学なし。…近日は加藤某、井上某、自ら標榜して哲学者と為し、世人もまたあるいはこれを許すといへども、その実は己れが学習せし所の泰西某々の論説をそのままに輸入し、いはゆる崑崙に箇の棗を呑めるもの、哲学者と称するに足らず。
(p31)

以前、「上滑りの開化」という記事(id:yagian:20110810:1312926462)で夏目漱石の言葉を紹介したことがあるが、同じことを言っているのだと思う。

これを一言にして云えば現代日本の開化は皮相上滑りの開化であると云う事に帰着するのである。無論一から十まで何から何までとは言わない。複雑な問題に対してそう過激の言葉は慎まなければ悪いが我々の開化の一部分、あるいは大部分はいくら己惚れてみても上滑りと評するより致し方がない。しかしそれが悪いからお止しなさいと云うのではない。事実やむをえない、涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならないと云うのです。
「現代日本の開化」

富国強兵、条約改正、独立維持という目的のために「涙を呑んで上滑りに滑って行」った結末が太平洋戦争の敗戦であり、太平洋戦争の敗戦後もやはり戦後復興という目的のために「涙を呑んで上滑りに滑って行」った結末が現代の状況であるということだ。
結局のところ、日本の政党政治はおそらくは中江兆民の時代からさして変化がないということなのだろう。しかし、世界的に見れば、民主政治がまともに機能している国はごく一握りだから、日本がうまく言っていないからといってさほど卑下する必要もないのかもしれない。
明治から平成までの日本の変遷を眺めていると、福沢諭吉はきわめて特異で、かつ、先見性のある人に思える。
幕末から明治初期にかけて、西洋の植民地化に抗して日本の独立を守るために、尊皇攘夷から和魂洋才、極端な欧化主義までさまざまな主張がなされた。しかし、福沢諭吉は「学問ノススメ」のなかで「一身独立して一国独立すること」と主張する。

第一条 独立の気力なき者は国を思うこと深切ならず
 独立とは自分にて自分の身を支配し他によりすがる心なきを言う。みずから物事の理非を分別して処置を誤ることなき者は、他人の知恵によらざる独立なり。みずから心身を労して私立の活計をなす者は、他人の財によらざる独立なり。人々この独立の心なくしてただ他人の力によりすがらんとのみせば、全国の人はみな、よりすがる人のみにてこれを引き受くる者はなかるべし。…
 仮りにここに人口百万人の国あらん。このうち千人は智者にして九十九万余の者は無智者の小民ならん。智者の才徳をもってこの小民を支配し、あるいは子のごとくして愛し、あるいは羊のごとくして養い、あるいは威しあるいは撫し、恩威ともに行われてその向かうところを示すこともあらば、小民も識らず知らずして上の命に従い、盗賊、人殺しの沙汰もなく、国内安穏に治まることあるべけれども、もとこの国の人民、主客の二様に分かれ、主人たる者は千人の智者にて、よきように国を支配し、その余の者は悉皆何も知らざる客分なり。すでに客分とあればもとより心配もすくなく、ただ主人のみよりすがりて身に引きうくることなきゆえ、国を患うることも主人のごとくならざるは必然、実に水くさき有様なり。国内のことなればともかくもなれども、いったん外国と戦争などのことあらばその不都合なること思い見るべし。無智無力の小民ら、戈を倒にすることもなかるべけれども、われわれは客分のことなるゆえ一命を棄つるは過分なりとて逃げ走る者多かるべし。

民主主義に求められる「哲学」とはなにか、と考えると「一身独立して一国独立すること」に尽きるように思う。福沢諭吉は、啓蒙書を書き、学校を設立運営して教育に専心していく訳だが、一見迂遠なように見えて、結局はそれが日本の近代化のための最短コースを歩んでいたように思う。
残念ながら「学問ノススメ」から現在に至るまで「一身独立して一国独立すること」はこの国では定着していないけれど。

一年有半・続一年有半 (岩波文庫)

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漱石文明論集 (岩波文庫)

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学問のすゝめ (岩波文庫)

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