民主制、官僚制、市場機構

福島第一原子力発電所の事故以来、原子力発電のような危険性もはらんだ巨大システムを制御しうる制度はありうるのだろうか、という疑問を持ち、民主制を中心として国家制度に関係する古典的な書籍を読んできた。
今回は、マックス・ウェーバー「権力と支配」「社会主義」を読んだ。
「権力と支配」は、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のような具体的な社会を対象としたの分析ではなく、権力や支配の一般的な分類に関する理論的な著作なため、ウェーバーがなぜこのような分類を提唱するのか、その理由がつかめず理解が難しかった。
社会主義」は第一次世界大戦中にオーストラリア=ハンガリー帝国軍の将校に対して社会主義を批判しつつその特性について語った講演録である。「権力と支配」ででてきた概念が具体的なロシアやドイツの社会主義運動に適用されており、多少理解が進んだ。
ウェーバーの著書でいちばん参考になったのは、やはり官僚制論である。彼は、正当性を持った支配の純粋型として合法的支配、伝統的支配、カリスマ的支配の三つを提示する。そして、合法的支配の担い手として官僚制を想定する。ここでいう官僚制とは、政府におけるいわゆる「官僚制」のみならず、企業などにおける合法的支配をおこなうホワイトカラーも含んでいる。
ウェーバーは、民主制と資本主義経済の進展により統治の複雑化が進むとともに官僚制が必要とならざるを得ないと指摘している。しかし、一方で、専門的知識の独占に基づき自らの支配を強化しようとする官僚制と、選挙によって選ばれた非専門家である政治家による民主制の間には対立が生じるという。
たしかに、小泉純一郎民主党は、政治主導というキャッチフレーズによって官僚制支配を打倒し、選挙に基づく正当性を持った政治家が重要な事項はコントロールすべきだと主張している。国民も官僚に対しては厳しい目を向けつつも、自らが選挙で選んだにもかかわらず非専門家である政治家の判断に対しては信頼を持っていない。
民主制の制度設計の思想としては、あらかじめルールを定めることができる事項に関する国家の運営については、合法的支配の原理に基づく官僚制にゆだねることが望ましく、一方、ルール自体を変更しなければならない事態や官僚制がその専門知識の独占に基づき自らの利益を追求することを制約するためには、選挙で選ばれた議会や内閣、大統領などによる判断が必要だということになるのだろう。問題はそのバランスということになる。
アレクシス・ド・トクヴィルの「アメリカのデモクラシー」はきわめて興味深い本だが、これを読むと、アメリカは官僚制への嫌悪がきわめて強いことがわかる。現在でも、草の根民主主義としてのワシントンへの嫌悪が強く、その支持層に立脚した大統領が選出されることも多いし、政府のポストへの政治任用の範囲もきわめて広い。アメリカの場合は、官僚制による合法的な支配がゆがめられても、民主的に選出された非専門家によって統治されることが優先される。
日本では、アメリカに比較すると、かつては官僚制の優秀さが強調され、また、現在では官僚制による支配が強力であるという一般的な認識があると思われる。しかし、村松岐夫「日本の行政」を読むと、戦後、日本国憲法下、議会を通じた政治家による官僚制への影響力は一貫して強まっていったことがわかる。たしかに、官僚は情報の操作によって政治家をコントロールしようとする指向はあるだろうけれど、基本的には議会によって決定された法、予算によって大枠は決められている。自民党政権下においては議会で実質的な議論がなされていないという批判があったけれど、その時代では官僚が国会に提出する法案は提出前に自民党による審査を経ており、事実上政治家の同意が取れた法案となっていた。実際、高級官僚の業務の多くの部分は国会対策に費やされている。
原子力発電をめぐる政策の歴史を見ていると、官僚制の独走というよりは、「民主的」に選ばれた政治家と官僚の協調、結託の関係が見て取れる。そもそも原子力発電の日本における実用化においては中曽根康弘をはじめとする政治家のリーダーシップが大きな影響があり、それに官僚と電力会社が乗る形で「原子力ムラ」が形成されていった。原子力発電に限らず、サブガバメントが成立するためには、官僚だけではなく、政治家の協力が不可欠、というより、政治家のイニシアティブが重要であるように思われる。
本来、官僚制の独走を抑制すべき政治家が結託するという状況が作り上げられたのは、やはり、長期に及ぶ自民党政権、中選挙制による特定の利益団体を代表する議員、族議員が選出されてきたことが大きな要因だったと思う。確かに、現在の民主党政権は素人過ぎるとか、いまや日本で最大の守旧派となっている労働組合の影響力が強すぎるといった問題を抱えているけれど、政権交代が現実のものになっり、官僚制と議会、内閣の健全な緊張関係が生じたという意義は大きいと思う。
もうひとつの要素、市場機構については、社会学者であるウェーバーはあまり考察を深めていない。以前引用したコース「企業・市場・法」では、完全市場が成立してれば必要とされないはずの企業がなぜ存在しているのか、という疑問に対して考察をしている。結論をごく簡単に要約すれば、市場での取引には情報の収集などの費用を要するために、その費用の節約のために企業が存在するということになる。企業の規模は、企業による費用の節約の程度と、企業を維持するための費用の相対関係によるとしている。
ウェーバーは官僚制が肥大化することによる非効率化という観点が乏しいが、コースの観点から言えば、官僚制と市場機構は代替関係にあり、もっとも効率のよい点がどこかにあるはずである。
自民党政権下において強固なサブガバメントが形成されてしまい、その弊害があらわとなっている現在において、その力を削ぐためには、官僚制が担っている機能を市場機構にゆだねるということが必要になってくると思う。また、人間の理性に懐疑的なハイエク的、イギリス経験論的な立場からは、選挙によって選ばれる政治家や官僚制がすぐれた決断、計画をできるとは思えない。その意味でも市場機構にゆだねる必要があると考えている。
それでは、具体的に民主制、官僚制、市場機構をどのように組み合わせるべきか。残念ながら、今はその答えは持っていない。これからも思索の旅は続く。

権力と支配 (講談社学術文庫)

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社会主義 (講談社学術文庫)

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アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)

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日本の行政―活動型官僚制の変貌 (中公新書)

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企業・市場・法

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