己惚れと自己弁護と自己宣伝

稲本が自分のブログ「おれと写真」(id:yinamoto:20130223)の冒頭に次のように書いている。

おれ様はこういう人間であるという例によってのおれおれ話である。

ちょうどiPhoneにインストールした豊平文庫(青空文庫リーダーとしては使いやすいと思う(http://goo.gl/mT8DZ))で織田作之助の随筆を読んでいたら、似たようなことが書いてあった。
「僕の読書法」織田作之助(http://goo.gl/cuN6z)

己惚れの種類も思えば数限りないものである。人は己惚れが無くてはさびしくて生きておれまい。よしんばそれが耳かきですくう程のささやかな己惚れにせよ、人はそのかけらにすがって群衆の波に漂うているのではなかろうか。果して小人だけが己惚れを持つものだろうか。己惚れは心卑しい愚者だけの持つものだろうか。そうとも思えない。例えば作家が著作集を出す時、後記というものを書くけれど、それは如何ほど謙遜してみたところで、ともかく上梓して世に出す以上、多少の己惚れが無くてはかなうまいと思うが、どうであろうか。恥しいものですと断ってみても、無理矢理本屋に原稿を持っていかれたと体裁の良い弁明をしてみても、出す以上は駄目である。よくよく恥しいという謙遜の美徳があれば、その人の芸術的良心にかけても、たれも本にすまい。人に読ませる積りで書いたのではないという原稿でも、結局は世に出ている。自分の死んだあと、全集を出すなと遺言した作家は何人いるだろうか。

このブログでも何度か紹介しているが、森鷗外も似たようなことを書いている。
ヰタ・セクスアリス」森鷗外(http://goo.gl/LS05m)

自己弁護だなんぞという罪名もまだ無かった。僕はどんな芸術品でも、自己弁護でないものは無いように思う。それは人生が自己弁護であるからである。あらゆる生物の生活が自己弁護であるからである。木の葉に止まっている雨蛙は青くて、壁に止まっているのは土色をしている。草むらを出没する蜥蜴とかげは背に緑の筋を持っている。沙漠の砂に住んでいるのは砂の色をしている。Mimicry は自己弁護である。文章の自己弁護であるのも、同じ道理である。

私はすべての自己表現が己惚れであり自己弁護だなどと断定はできないけれど、私自身のインターネット上の書き込みのすべては己惚れであり自己弁護である。
己惚れが面倒なのは、自分だけでは完結せず褒めてくれる人が必要だということだ。褒めてくれるまでいかなくても、読んでくれる人が必要である。そこで、ブログを書けばTwitterfacebookで宣伝するし、ページビューをチェックする。ページビューを増やそうと思って書くことはあまりないけれど、結果としてページビューが増えればうれしい。コメントがつけばもっとうれしい。それが好意的であれば何も言うことはない。
上品に自己宣伝ができる人もいるけれど、自分の場合はなかなかそうはできない。どうしても己惚れ、自己弁護が露骨に見えてしまう。が、仕方あるまい。己惚れを満たすため、誰かに褒めてもらうことがほんとうの目的なのだから。
というわけで、最後に自己宣伝をする。
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