真の日本人の証明

9月の末から扁桃腺炎の影響があって体調が優れず、blogもご無沙汰してしまった。
扁桃腺炎で発熱しているときは、暇といえば暇である。微熱であれば本を読んでいるが、熱が上がると本を読む元気がなくなる。そんな時はTVをザッピングしていた。と言っても、最近は地上波を見ることはあまりなく、BSやスカパーを主に見ている。
ザッピングをしていたらWWEを放映していて、そのときリングに上がっていたAlbert Del RioというSuper Star(WWEでは選手をそのように呼ぶ)に目を奪われてしまった。
1990年代には熱心なプロレスファンだった。武藤敬司高田延彦の東京ドームでの試合は今でも鮮明に記憶している。しかし、2000年代に入ると総合格闘技の隆盛もありプロレスが色褪せたものに見えるようになってしまった。手足が長く、drop kickがきれいで、古典的な試合運びができるオカダ・カズチカは才能のある選手だと思うけれど、今では定期的にプロレスを見ることはないし、会場に足を運ぶことはない。
まず、Albert Del Rioの動きに驚いた。Heavy Weightの体格なのに、実に動きが速く、日本風のプロレスの技、動きができる。投げっぱなしではなく、gripを離さないきれいなbridgeを保ったgerman suplexを決めている。関節技が得意という設定で、決め技は飛びつき式の十字固めだった。
そして、彼のcharacterも興味深かった。Mexicanのheelである。heelだから試合後のspeechで観客を侮辱する。金持ちで、誇り高く、高慢なMexicanという設定で、観客を"Gringos"と呼んでいた。"Gringos"はAmericanを侮辱する言葉で、TVの字幕では「アメ公」と訳されていた。これまでも金持ちで高慢なheelが観客を貧乏人よわばりすることはよくあったが、Mexicoにprideを持っているMexicanがその立場からAmericanを見下すというcharacterははじめて見た。
Wikipedeaで調べてみると、Albert Del RioDos Caras Jr.だということがわかり、彼のringでの動きについて謎がとけた。総合格闘技の実戦の経験もあり、日本でプロレスをした経験もある。「仕事ができる」プロレスラーであることは当然だ。あのDos Carasの息子がWWEのtop heelとして活躍しているということに感慨深かった。
現在、Del Rioが抗争している相手は、まさしくtop baby faceであるJohn Cenaである。彼は、代表的、典型的なAmericanというcharacterのpower fighterである。AmericanとMexicanという対比もいいし、Del Rioがring上では試合をひっぱっていくこともできる。
ある日の放映で、John Cenaの試合をDel Rioが放送席でcommentしていた。もちろん、Del RioはJohn Cenaをこき下ろしている。

Del Rio: John Cena is an American in name only.

Announcer: Ridiculous. You do realize that John Cena is a man who the past decade visited troops in Afghanistan and Iraq. You said "he isn't an America?"

確かに、John Cenaは、好き嫌いはともかく、誰が見ても「アメリカ的」Americanだから、Del Rioの批判は当を得ていない。興味深いのは、announcerがJohn Cenaが「真のAmerican」である証明のために軍の慰問をしていることをあげたことである。
ひるがえって考えてみると、「真の日本人」であることを証明すること、には何があるのだろうか。
もちろん、自衛隊を慰問していても「真の日本人」の証明にはならないだろう。また、一部の人は靖国神社に参拝することが「真の日本人」の証明になると考えているが、一般的に共有された考えではない。東日本大震災被災地でvolunteerをすることは賞賛されることではあるが、「真の日本人」ということの証明になるかといわれると違和感がある。外国人でvolunteerをしている人は多いし、彼らは「真の日本人」になりたいと考えている訳でもないし、「真の日本人」として認められる訳でもない。
本居宣長の「葛花」のなかの天皇に関する言葉を思い出した。

君は本より真に尊し、その貴きは徳にあらず、もはら種によれる事にて、下にいかほど徳ある人あれ共、かはることあたはざれば、萬々年の末の末の代までも、君臣の位動くことなく厳然たり

君主はそもそもほんとうに尊く、その貴さは徳にあるのではなく、もっぱら「種」によることであり、臣下にどれほど徳のある人がいても、かわることはできないから、永遠に君主と臣下の位は厳然として動くことはない、というほどの意味だろう。
本居宣長は、漢意(中国の思想)を嫌い、批判している。中国では、天命が失われれば、革命によって王朝が交代するという観念があるが、それに比べ日本の天皇制は万世一系であることを彼は誇っている。日本の天皇は種、すなわち血統で決まり、徳が低いとしても「君臣の位が動くこと」はないからだ。
中国の皇帝は自らの資格を徳の高い統治を行うことで天に証明しなければならない。Americanも「真のAmerican」であるためには、何らかの行動で証明しなければならない。逆に言えば証明することさえできれば、誰でも中国の皇帝にもなれるし、「真のAmerican」になることができる。
しかし、日本人であるということは「もはら種によれる事にて」、それ以上の証明は求められないし、逆に外国人が「真の日本人」になることもできない。
WWEのような大衆的なentertainmentでは、Americaのひとびとが自明と思っているstereo typeがふとした瞬間に露呈することがある。heelとannouncerの何気ないやりとりに、Americaの本質があらわれてしまう。しばらくWWEを見てみようと思う。