抑圧される人と抑圧する人の解放:Nelson Mandelaと「深いcommunication」

しばらく前、社内で事業部門の人たちと顧客満足度を高める方法について議論をした。
相手の業界によっては、外注先(ここでは私の会社)の社員を日常的に怒鳴ることもあり、社員の「ストレス耐性」を高めることが必要だという意見がでた。
私の会社の社員は往々にして「ストレス耐性」が低く、怒鳴られると自分の責任だと感じてしまい、めげることが多いという。とある著名なconsulting companyの社員を観察していると、いくら怒鳴られても自分の考えを押し通す強さがある、とのことだった。
しかし、そのconsulting companyの社員のやり方がほんとうによいのか疑問を感じた。
TVで、さきごろ亡くなったNelson Mandelaのあるepisodeを耳にし、深い感銘を受けた。反政府運動をしていたNelson Mandelaは逮捕、収監され、看守から過酷な扱いを受ける。最初、彼はその扱いに激怒していたが、しばらくすると看守を観察し、communicationをするようになったという。最終的には、怒りには意味がなく、抑圧される側も抑圧する側も解放されなければならないという考えに到達するようになったという。
ある関係性に問題があるならば、片方だけが変化することでは解決できないだろう。双方が変化することで問題は解決される。apartheidの問題であれば、抑圧されていた黒人の待遇が改善されただけでは最終的な解決にはならず、抑圧していた白人が潜在的に抱えていた問題も解消されなければならない。双方の主体を変化に導くものが「深いcommunication」なのだと思う。
往々にして、人は自分こそが正解を知っており、相手が変わりさえすれば問題は解決すると考えている。権力のある側は命令することで相手に変化を強制することで問題を解決しようとする。また、権力のない側は問題が解決しないのは相手のせいだと密かに愚痴をこぼす。しかし、このような関係性、communicationでは問題の解決には至らない。
外注を怒鳴る業界は、まさにこの構図に陥っている。
おそらく、発注者は怒鳴ることで外注を操作し問題を解決してきたという歴史、成功体験を積み重ねており、「怒鳴る文化」が定着しているのだろう。しかし、そのようなstressが高い環境で外注がよい仕事ができるはずはないし、また、怒鳴る側にとってもstressが溜まるのではないだろうか。少なくとも、私は日々誰かを怒鳴りたいとはまったく思わない。Nelson Mandela風に言えば、怒鳴られる側も怒鳴る側も解放されなければならないのだと思う。
その解放に向けた突破口は、やはり「深いcommunication」である。
「とある著名なconsulting companyの社員」の行動は、短期的に身を守るためには合理的かもしれないが、第三者的に見れば「深いcommunication」を拒絶してるように見える。
「怒鳴られると傷つく」という感性はひよわに見えるかもしれないけれど、「深いcommunication」に至るためには必要なもののようにも思える。問題があるとすれば、怒鳴られた原因をすべて自分に向けていることだ。「怒鳴るー怒鳴られる」という関係性で、怒鳴られる側に一方的に責任、問題があるということはありえない。Nelson Mandelaが一歩引いて看守の観察をはじめたように、怒鳴る側を観察し、彼らの心理を想像することが「深いcommunication」へのきっかけとなるはずだ。
怒鳴る側も、怒鳴らずによりよい仕事が実現すればその方がよいはずである。それが実現した時には、単に外注側がよりsmoothに仕事をするようになるだけではなく、発注側の仕事の方法も変わっているはずだ。そして、「深いcommunication」を通じて、相互理解、信頼が築きあげられている。