しばらく前「高橋是清自伝」を読み、これがおもしろかったので(id:yagian:20140602:1401656704, id:yagian:20140603:1401750056)、幕末から明治にかけて生きた人物の自伝の代表格である「福翁自伝」を久しぶりに読み返してみた。
さまざまな視点から読むことができる本だが、今回は福沢諭吉が蘭学を学んだ緒方洪庵の塾の様子について書かれた「緒方の塾風」の章が印象的だった。
緒方洪庵の塾は大坂にあり、塾生たちは貧書生が多く、バンカラな話題には事欠かなかったらしい。しかし、それだけではなく、学問勉強についてはきわめて熱心だったという。
およそこういう風で、外に出てもまた内にいても、乱暴もすれば議論もする。ソレ学問どころのことではなく、ただワイワイしていたのかと人が思うでありましょうが、如何にも段に至っては決してそうではない。学問勉強ということになっては、当時世の中に緒方塾生の右に出るものはなかろうと思われる
それでは、緒方塾ではどのような教育が行われていたのだろうか。
…まず初めて塾に入門した者は何も知らぬ。…江戸で翻刻になっているオランダの文典が二冊ある。…素読を授ける傍らに講釈もして聞かせる。…どうやら二冊の文典が解せるようになったところで会読をさせる。会読ということは、生徒が十人なら十人、十五人なら十五人に会頭が一人あって、その会読をするのを聞いていて、出来不出来によって白玉を付けたり黒玉を付けたりするという趣向で、…それから以上は専ら自身自力の研究に任せる…
…
市中に出て大いに酒を飲むとか暴れるとかいうのは、大抵会読をしまったその晩か翌日あたりで、次の会読までにはマダ四日も五日も暇があるという時に勝手次第に出て行ったので、会読の日に近くなると、いわゆる月に六回の試験だから非常に勉強していました。…兎も角も外面をごまかして何年いたら登級するの卒業するのということは絶えてなく、正味の実力を養うというのが事実行われて居ったから、大概の塾生は能く原書を読むことに達していました。
何かを習得するためには、結局のところ「自身自力の研究」が必要だ。一方で、自分一人で学習をするのは厳しいから、いっしょに学ぶ仲間がいることも重要である。緒方塾はその両者を両立したいい仕組みだと思う。
考えてみれば、現代の学校制度における「学年」とか、年限がきたら「卒業」するといった決まり事は学習の本質にまったく関係ない。「自身自力の研究」には人それぞれの時期や進度があるから、それぞれの人が自ら塾で学習したいと思うときに通い、もう自分だけで学習できると思った時にやめればいい。
文部科学省が決める学習指導要領は大きなお世話だと思う。人は多様だから「同じ年齢で同じことを学ぶ」という発想が理解不能である。さらに言えば、就職する準備が整うのも人によって違っているから、新卒での就職活動というものも実に不思議な風習に見える。
兎に角に当時の緒方の書生は、十中の七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的のなかったのが却って仕合(しあわせ)で、江戸の書生よりも能く勉強が出来たのであろう。ソレカラ考えてみると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行く先ばかり考えているようでは、修行は出来なかろうと思う。…如何したらば立身が出来るだろうか、如何したらば金が這入るだろうか…というようなことばかり心を引かれて、齷齪(あくせく)勉強するということでは、決して真の勉強は出来ないだろうと思う。
逆説的なことだけど、何かをきちんと習得するには、損得勘定を離れて、純粋な気持ちでその分野について勉強したいと思うことが必要だと思う。結果的に実用的な技能を習得することができることもある。もちろん、何にも役に立たないことを習得するということもありうる。学習とはそういうことではないだろうか。
私も「古典」を読むことは好きなのだが、ライフネット生命保険会長の出口治明のように「古典」や「教養」を「効用」に結びつけることは疑問である。(「読書のすすめ―本から学ぶことの効用と古典の重要性」http://diamond.jp/articles/-/17022)
そろそろ人生の先が見えてきて、これから読める本の数の上限も想像できるようになると、つまらない本を読むことに時間を浪費したくなくなる。「古典」となっている本は、それだけ多くの人、長い期間読み継がれてきただけあって、経験的に外れが少ない(もちろん、外れることもあるが)。だから「古典」を読む。それ以上でも以下でもない。特に効用を求めている訳ではない。結果的に何かの役に立つことはある。しかし、役に立たない知識も多いし、役に立てようと思って読むことはない。
出口氏も、ほんとうのところは効用を求めて古典を読んでいるのではない、と邪推している。純粋におもしろいから読んでいる。そして、結果的に役に立つこともある、ということではないだろうか。
かつては「古典」「教養」は階級と結びついていた。特定の階級では特定の教養を身につけることを求められ、また、その教養は特定の階級に閉じられていた。現在、教養を押し付けられることもなければ、自由に教養を身につけることができる。「効用」という名目で教養の押し付けをすることもないと思うし、逆に、教養を楽しむことも万人に開かれている。
- 作者: 高橋是清,上塚司
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 1976/07/10
- メディア: 文庫
- 購入: 3人 クリック: 29回
- この商品を含むブログ (26件) を見る
- 作者: 高橋是清,上塚司
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 1976/08/10
- メディア: 文庫
- 購入: 3人 クリック: 7回
- この商品を含むブログ (19件) を見る
- 作者: 福沢諭吉,富田正文
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1978/10
- メディア: 文庫
- 購入: 8人 クリック: 96回
- この商品を含むブログ (127件) を見る