「教養」は「役に立つ」のか?

しばらく前、文部科学省が国立大学の「文系」学部廃止の方針を示したという風説が流れ、結局それはデマだということで落着したことがあった。その時、「文系」の学問や「教養」を擁護するために、それらは一見有用性に乏しいように見えるけれど、実は「役に立つ」のだという主張をいくつか目にした。

私自身、大学では教養学部文化人類学という「文系」ど真ん中の学問を専攻していたし、社会人になってからも「教養」的なことには興味がある方だと思う。しかし、「文系」の学問や「教養」が「役に立つ」という主張には違和感がある。正直に言って、贔屓の引き倒しのように感じる。

たしかに「教養」を習得することで「役に立つ」こともある。しかし「役に立たない」ことも多い。「教養」が「役に立つ」場合も、習得した時にはまったく想定していなかった「役に立ち方」をすることが多いだろう。つまり「教養」が「役に立つ」といっても、合目的に「役に立つ」のではなく、あくまでも結果的に「役に立つ」こともある、ということだろう。

そもそも「役に立つ」ことを目的として「教養」を習得した人っているのだろうか?「教養」を習得した人は、「教養」それ自体に価値を見出したり、「教養」に興味があるから学んでいると思う。少なくとも、自分は「役に立つ」という観点で「教養」的なことを学習したことはない。

もちろん「役に立つ」ことを目的として学習することはある。その時は、実際に習得することが必要になった瞬間に、短期集中型で習得することがよいと思うし、実際にそのようにしている。必要になった瞬間こそ、習得すべきことがはっきりするし、目的、目標を明確にして最短コースで学習することができる。しかし、このようにして学んだことは「教養」ではない。

「役に立つ」から「教養」を学ぶ価値があると説得され、何かの「役に立つ」と思って「教養」を学んだ人は、「教養」が直接的には「役に立たない」ことに失望すると思う。また、「役に立てよう」ということを主な目的で学習したことは、そもそも「教養」ではないだろう。だから、「教養」を援護しようとするならば、その有用性を主張するのではなく、「教養」それ自体に価値があるとか、「教養」の楽しさを主張した方がよいのではないかと思う。また、実際に「教養」を習得している人たちの実感にも近いのではないだろうか。

政府に支出を求めるとき、それが「役に立つ」ことを示すことができれば、国民を説得しやすい、ということはわかる。また、「理系」の学問は有用性があり、「文系」の学問は有用性に乏しいという主張は粗雑すぎるのは自明だろう。しかし、私が大学で学んでいた「文化人類学」を有用性を根拠に擁護するのは難しいと思う。「文系」の学問のなかには(そして、「理系」の学問のなかにも)有用性を主張するのは難しいものもある。それらの学問は、自ら有用性を主張することで、その学問の本質を歪めてしまうことにならないだろうか。

「教養」は「役に立つ」のか?

「役に立つ」こともある。しかし、「役に立つ」ことが「教養」の価値ではない。ということが、いまの暫定的な回答である。