自分の考えが正しい根拠はどこにあるのか?

「かくて行動経済学は生まれり」と「ブラック・スワン

マイケル・ルイス「かくて行動経済学はうまれり」を読み終わった。行動経済学者のリチャード・セイラー(この本のなかにも登場する)がノーベル賞を受賞したからではなく、図書館で予約を入れておいたのが、たまたまこのタイミングで順番がまわってきたからである。

非常におもしろく、興味深い本だった。行動経済学の契機となる研究を行ったイスラエル人の心理学者、ダニエル・カーネマンとエイモス・トヴェルスキーを主人公としたノンフィクションだ。彼ら二人のライフヒストリー、キャラクター、二人の関係とその変遷もおもしろいし、彼らの研究自体も興味深い。

経済学では、人間は合理的な行動とる、という仮説を基礎としている。もちろん、個々の人間の個々の行動がすべて合理的という訳ではない。しかし、平均すれば合理的な行動に落ち着く、ということである。しかし、カーネマンとトヴェルスキーは、人間はある一定の傾向を持って合理的な判断、意思決定、行動から離れることを示した。この研究によって、「人間は合理的な行動をとらない」という前提に基づく経済学、行動経済学が生まれた。

この本を読みながら、ナシール・ニコラス・タレブ「ブラック・スワン」を思い出していた。「ブラック・スワン」では、ごくまれにしか起きないが、発生すると破滅的な影響を与える事象、例えばリーマン・ショックのような、を人間は過小評価しがちで、合理的に対処できないことを論じている。

カーネマンは幼少期にナチス占領下のフランスからイスラエルに移住してきた経験を持つ。カーネマンとトヴェルスキーのふたりともイスラエルの存亡をかけた戦争での軍役の経験を持っている。一方、タレブが「ブラック・スワン」のアイデアを得たのは、それまで長年平和だったレバノンが一夜にして内戦の巷と化してしまった経験にもとづいている。

 この両者には、過酷な経験に立脚したリアリスティックな人間の知性への懐疑、が共通しているように思う。

かくて行動経済学は生まれり

かくて行動経済学は生まれり

 
ブラック・スワン[上]―不確実性とリスクの本質

ブラック・スワン[上]―不確実性とリスクの本質

 
ブラック・スワン[下]―不確実性とリスクの本質
 

自分の考えが正しい根拠はどこにあるのか

自分も懐疑主義的だ。

さまざまな事柄に対して、自分なりの考えは明確に持っている方だと思う。もちろん、それぞれの自分の考えに対して自分なりの根拠を持っている。しかし、一方で、同じ事柄に対して自分と異なる考えを持っている人がいることは理解しているし、多くの場合、自分の考えが少数派だったりする。

同じ事柄を見て、自分と違う考えを持つ他人がいる、という事象は非常に興味深い。当然ながら、自分の観点から見れば、他人の考えよりは自分の考えの正しいような印象を持つ。しかし、客観的に見て、自分の考えが他人の考えより正しいという確実な根拠はないように思える。

あたかも自分の考えが正しい、ということを信じているかのように見える人がいる。しかも数多く。そのような人は、自分の考えが他人の考えと比べてより正しいという具体的な根拠を持っているのだろうか?それとも単に自分の考えが正しいと信じているだけなのだろうか。

私の文章には「思う」が頻出する。文体の美学としては、断定した方が美しいのかもしれない。しかし、私は自分の考えに懐疑的なので、あくまでも自分の考えに過ぎないものを断定するのは不誠実なように感じてしまう。ここまでは確実な事実であり、ここからは不確実な自分の考えだということを明示しておきたいのである。

他人へのアドバイスは難しい

 自分の考えの普遍的な正しさについては懐疑的だが、自分の行動に対する決断にはあまり迷いがない。それは、自分の決断の根拠には自分の考えで十分であり、それには普遍的な正しさが必要とは特に感じない。

しかし、他人の決断に影響を与えうる場合、自分の不確かな考えを伝えること、つまり、他人にアドバイスすることは難しいと思っている。自分の決断においては、自分の考えの不確かさに、自分が責任を取ることはできる。しかし、他人の決断において、自分の考えの不確かさに責任は負えないと思うからだ。

だから、あくまでも自分があなたの立場だったらこのように考える、ということは伝えるけれど、こうすべきだ、とは言えないし、言うことが不誠実に感じる。だから、いとも簡単にアドバイスとして自分の考えをとうとうと述べ、場合によっては押し付ける人を見ると、なんていうか、人間の多様性について思いを馳せてしまう。

「構成的主知主義」批判とハイエク

 このような懐疑主義を持っていると、フリードリヒ・ハイエクの思想は実にしっくりくる。

彼は、人間の知性によって理想の社会を設計できるというような考え方「構成的主知主義」を厳しく批判する。例えば、フランス革命ロシア革命のように、自分の考える理想の社会、国を実現するために手段を選ばないような行為の基礎となっている考え方である。

人間や社会は個人の知性によって解明するには複雑過ぎると思う。自分なりの理想の社会を構想するのはよいが、それを社会に押し付けるほどに正しいという確信をどうやって持てるのだろうか。あまりにも傲慢ではないだろうか。実際、そのような革命では多くの人が悲惨な運命をたどった。ある人びとの傲慢さゆえに。

私は、ハイエク懐疑主義を取りたいし、これからも文末に「思う」を多用し続けると思う。