気持ちにしっくりくる文章

NHK−BSの番組で、新藤兼人が戦争体験について語っていた。
新藤兼人は兵役についていて、神戸にあった川西飛行機の工場の隣に駐屯していた。川西飛行機は、軍用機を生産していたから、米軍の重要な攻撃目標で、終戦の1か月前、絨毯爆撃にあった。空襲のさなか、彼は、簡易な防空壕のなかで死ぬかもしれないと思いながら、人間の最期のひとことは、どんな言葉だろうかと考えていたという。
いくらシナリオライターだったとはいえ、そんな切迫した状況で、よくそんなことが考えられるものだと思う。しかし、極限状態になると、逆に、冷静になってしまうのかも知れない。そこまで追いつめられたことがないから、実際のところはよくわからない。
新藤兼人は、「天皇陛下万歳」と言って死ぬというシナリオがあるけれど、それは違うだろうと思ったという。しかし、「お母さん」というのもしっくりこない。最期のひとことは、言葉にならない「うわぁぁあ」というような叫び声なんじゃないかと思ったという。
天皇陛下万歳」「お母さん」と書いてしまうシナリオライターの考えもわかるし、「うわぁぁあ」というような叫び声が最期のひとことではないかという新藤兼人の気持ちもよくわかる。
この日記に、橋本真也のことを書いた(id:yagin:20050718, id:yagin:20050724)。書き出すまでにも時間がかかったが、いざ書いてみると、どうも気持ちにしっくりくる文章が書けなかった。読み返してみると、なにか気持ち悪い。
文章を書くときは、どうしても論理的に、というとおおげさだが、まとまりをつけようとしてしまう。いくら書き流している時でも、どこかで全体の構成を考えているし、前後の脈略から飛躍した文章は書けるものではない。最後には、なにか結論めいたもの、オチをつけないと落ち着かない。
しかし、まとまりをつけようとするほど、自分の気持ちから離れた文章になってしまうときがある。橋本真也について書いたときがまさにそうだった。
天皇陛下万歳」「お母さん」と書いてしまうシナリオライターは、おそらく、どこかでほんとうはこんなことを言わないんじゃないかとうさんくさく思っているのだろう。しかし、「天皇陛下万歳」「お母さん」という言葉は、合理的に説明がつけやすいのである。まとまりよくオチがつく。しかし、書いていて、どこか気持ちにしっくり来ないところがあるのではないか。新藤兼人のいうように、「うわぁぁあ」といった意味のない言葉を叫びながら死ぬのではないかと、気持ちでは納得する。しかし、どうして最期の言葉が「うわぁぁあ」なのかを理屈で説明することは難しい。
感情は必ずしも論理的ではない。論理な文章表現では感情は十分に表現できない。
今日の日記に安易にまとまりをつけるには、こんな文章で締めくくればよいけれど、実はそんなことは思っていない。
自分の感情は、自分自身でもよく理解できないことが多い。しかし、自分の心を十分深く掘り下げていけば、自分の感情に理解できる。そうすれば、他の人にも納得してもらえる文章表現にたどりつけるのではないか。簡単なことではないけれど。
新藤兼人の「うわぁぁあ」に、自分は納得している。それは、新藤兼人が十分な深さまで自分を掘り下げたからではないだろうか。まだ、橋本真也に対する自分の気持ちは、きちんと消化できていない。
ライトアップされた東寺五重塔が見えた。