2023年に読んだ印象的な本

あけましておめでとうございます。

 

毎年、新年に1年間の振り返りと新年の抱負を書いているが、それは明日にして、今日は去年読んだ印象的な本について書こうと思う。

語学の学習をしているとその分読書量が減ってしまうし、最近は文字が小さい本を読むのが少々辛いが、去年はいくつか印象的な本を読むことができた。

 

村上春樹『街とその不確かな壁』
村上春樹世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド

大学生の頃『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』が出版され手にとって以来、ずっと村上春樹の新刊が出るたびに読んできた。ここ最近の数作品については、あまり楽しむことができず、この『街とその不確かな壁』についてもあまり期待しておらず、電子書籍を買ってから半年ほど放置してしまった。

ふと気が向いて読み始めたところ、特に第二部以降は小説世界に引き込まれ、時間を忘れて没入する読書体験は久しぶりだった。

『街とその不確かな壁』は村上春樹自身の過去の作品を改作したもので、二つの並行世界が描かれる『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の「世界の終わり」パートとモティーフが共通する。そこで、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を再読してみた。

「ハードボイルド・ワンダーランド」のパートはいかにも若書きで冗長だと感じたが、「世界の終わり」パートは、この小説のものもよかった。『街とその不確かな壁』と比べると『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の方が、「世界の終わり」の描写がより詳しい。その詳しさが、自分には冗長に感じなかったけれど、『街とその不確かな壁』の方がよりムダがないということかもしれない。

世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の最終盤も緊密度が高く、これも『街とその不確かな壁』に劣らない小説体験ができた。村上春樹としては、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のラストが納得していなかったのかもしれない。自分も100%納得できる訳ではないが、しかし、小説体験の深さを考えると、ラストについてはあまり気にならなかった。

 

ダニエル・カーネマン『NOISE』

ダニエル・カーネマンの前作『ファスト&スロー』はかなり評判になり、行動経済学の考え方の基礎を興味深く、わかりやすく理解できる良書だった。『ファスト&スロー』に比べると『NOISE』はおもしろみは書けて、少々退屈なところがあり、実際、『ファスト&スロー』ほど評判にはならなかったけれど、内容が深いと思う。

『ファスト&スロー』は認知のバイアス、すなわち、系統的なズレを扱っており、『NOISE』は判断、予測の分散、ノイズについて扱っている。

人間には獲得することに比べ、損失することをより大きく評価する。具体的に言えば、1000円得られる機会を得ることと、1000円失う機会を避けることを比べると、1000円失う機会を避ける。この傾向は人間一般に共通するもので、そのような系統的なズレをバイアスを呼ぶ。

一方、人間が何かを予測する時、仮に同じ情報を提示されたとしても、専門的なトレーニングを受けた専門家であっても結果は異なるし、同じ人でも別の機会に予測すれば予測値が異なる。このようなばらつきをノイズと呼ぶ。

『NOISE』によれば、専門家であってもこのノイズによるばらつきはかなり大きく、専門家の予測はあてにならないという。最近、専門家による判断、予測よりAIによる判断、予測の方が上回るのではないかということが指摘されているが、そこまで複雑ではないモデル、単なる線形回帰モデルや、さらには、説明変数ごとに重みづけをせずに評点を単純集計したモデルですら、専門家のよる判断、予測よりノイズが小さく、より正確だという。

また、一般の人の予測を単純集計した結果がかなり正確だということはこれまで指摘されているが、それは、集計することでノイズが打ち消されることによるという。これも予測者同士がコミュニケーションをせず、独立した予測値を単純集計することがポイントで、合議をすると声の大きい人に予測値が左右されるため、予測値は不正確になるという。

ここからは、自分の感想であるが、人間の理性を重視する近代哲学では、理性のある人間が熟議をすれば正しい結論を得ることができる、という前提があると思うが、『NOISE』の主張はこれを完全に覆している。理性による判断よりはノイズが排除される単純なモデルの方が正確であり、集合知が機能するにはむしろ合議しない方が望ましい。これは、少数の人間が合議して計画するより、市場システムやルールベースの判断の方が正確性が高いことを意味している。

カーネマン自身はこのような主張はしていないし、読者の多くもそのようには考えていないと思うが、主知主義的な近代哲学や社会主義的な発想に対する深い批判になっていると思う。

 

上田信『戦国日本を見た中国人』

この本は、日本の戦国時代に、倭寇を防ぐように有力者に働きかけるため、中国から日本にやってきた使者、鄭舜功の手記「日本一鑑」を読み解くものである。

最近、日本の戦国時代において、後期倭寇、西洋人の来航、南蛮貿易キリシタン石見銀山と明への銀の輸出など、国際関係の重要性が指摘されるようになってきた。この本もその一環で、同時代の中国人から日本がどのように見えていたのかがよくわかる。

基本的に、中国から当時の日本人は凶暴と思われていたようだ。確かに、勘合貿易の時、中国で大内氏細川氏が武力闘争をしてしまうという前代未聞の事件を引き起こしているし、また、北方でモンゴルと戦闘を継続していた明は、元寇を追い返した日本の武力を評価して、日本刀を大量に輸入し、モンゴルと戦闘する部隊に配備していたという。

鄭舜功は、中国人に対して、日本人は凶暴は凶暴だが、ある種の秩序があり、話し合うことが不可能ではない、ということを主張していたようだ。その後、秀吉が朝鮮に侵攻し、それを防ぐことはできたけれど、防衛の負担が明の滅亡の原因の一つになったことを考えると、秩序ある凶暴という指摘は的を射ていたのだと思える。

この本で知った興味深い知識として、戦国時代の南蛮貿易に使われていた大型のジャンク船は、外洋を航行する能力があり、南から日本に来航する際、瀬戸内海を通らず高知沖から和歌山湾を通り、堺に入るルートを使っていたという。以前、戦国時代、鉄砲や火薬の原料を入手する交易は必ず瀬戸内海を経由するならば、この海域に影響力を持った戦国大名が有利なのではないかと思っていた。しかし、上記のルートが一般的であれば、堺を支配さえすれば、鉄砲や火薬の入手には困らないことになる。織田氏が毛利氏に対して優位だったことも納得できる。

 

 

近藤一博『疲労とはなにか』

疲労疲労感の原因、さらにはうつ病の原因について最新の研究を紹介した本。

以前、うつ病を患ったことがあり、これは疲労感の病だと感じていた。自分に関して言えば、確かに、情緒的な落ち込みも伴うのだが、圧倒的な身体的な倦怠感が主症状で、精神的な病気というより、身体的な病気という印象を持っていた。

この本によると、疲労感を正常なものと病的なものに分類している。正常な疲労感は、身体で起きる炎症によって誘導される脳内の物質によって疲労感が引き起こされるという。病的な疲労感は、体内にいるある種のヘルペスウイルスがストレッサーなどによって活性化することで、匂いを感じる器官が冒されることで、脳内の炎症を抑えるメカニズムに障害が起きることが原因だという。新型コロナウイルスの後遺症である倦怠感も似たようなメカニズムがあるという。

この研究がどの程度実証されているものかわからないが、少なくとも、過去に読んだうつ病のメカニズムに関する本よりは、自分の症状をうまく説明できているように感じた。また、抗うつ剤にはあまり効果がないと感じているが、この理論に沿ってより効果的な治療薬が開発されると良いと思う。

うつ病については、確かに人間関係などの精神的なストレッサーが要因の一つになり得るのだが、発症のメカニズムそのものは脳の器質的なもので、それに働きかける薬剤で治療しうる、という考え方には大いに納得できる。

また、日常的な疲労感との付き合い方にもヒントを得られた。