「かのように」であるかのように

森鴎外「かのように」(「阿部一族舞姫」所収(新潮文庫 ISBN:4101020043))について書いた日記(id:yagian:20060326:1143375411)に、稲本(id:yinamoto)が付けてくれたコメントへの返答には必ずしもならないけれど、ともかく、「かのように」を読み返してみて、その感想を書こうと思う。
「かのように」に示されている思想の側面からは、秀麿、秀麿の父、綾小路の三人が主要な登場人物ということになるだろう。雪や秀麿の母も、重要な意味を持っているような気もするのだが、そこまでは理解を深めることができなかった。
秀麿の考えを要約するとこようになるだろう。「人間のあらゆる智識、あらゆる学問の根本」には、仮定、すなわち、「かのように」が基礎になっていると考えている。そして、近代の教育を受ければ、「かのように」に気がつかないわけにはいかない。宗教の基礎にも「かのように」があるから、教育を受けた者は、素朴な信仰を持つことができなくなる。日本の神話についてもその通りだ。「かのように」を放置しておくと、教育を受けた者は、宗教や神話を信用しなくなり、かえって危険思想に走ることになり、危険だ。それであれば、「かのように」をきれいに整理して示すことで、信仰を持たないまでも、理性的に納得させるべきだ。
一方、秀麿の父は、このように考えている。秀麿の手紙を読み、自分の先祖崇拝のことを顧みると、真剣に信じているわけではなく、その意味で、秀麿の「かのように」の説は理解できる。しかし、宗教や神話の基礎に「かのように」があることを暴くことは、危険思想と受け取られる可能性が高い。だから、「かのように」はそのままそっとして置いた方がよいのではないか。秀麿には、そのような危険な仕事をしてほしくない。
秀麿は、自分が歴史の研究を進めるためには、まず、神話と歴史を明確に区分する必要があると考えている。そのためには、神話の「かのように」を明らかにしなければならない。父親が暗黙のうちに反対していることには気がついており、なかなか神話の「かのように」を明らかにする研究に手が付けられない。なんとか、父親を説得できないかと考えている。
そこに、画家になった綾小路がやってくる。綾小路は、秀麿の話を聞く。彼は、二つの点で、秀麿の話を否定する。一つは、「みんな手応えのあるものを向こうに見ているから、崇拝も出来れば、遵奉もできるのだ」から、「かのように」を納得させようとしても不可能だ。二つめは、そうであるならば、危険思想といわれても「突貫して行く積もりで、なぜ遣らない」ということだ。つまり、秀麿が望んでいる穏健思想としての「かのように」は不可能であり、秀麿が「かのように」を信じているのであれば危険思想といわれても、父親とそれにつながる体制に対立しても、その考えを貫徹すべき、と言っている。
それでは、この小説を、今の自分の立場に引きつけて考えてみたい。現代であれば、「かのように」が危険思想とさえれる危険は小さくなっている。しかし、実際には、秀麿の父のように「かのように」をそっとしようとしている人が多いように思う。それは、綾小路が言うように、「手応えのあるもの」を求めている人がおり、その人たちからは「かのように」思想は嫌われるからである。
このウェブログでも、なんとなく自己規制して書いていないことが多い。荒れるようなことは書くまいと思っているからだ。その意味では、危険ははるかに小さい時代になったにもかかわらず、自分も秀麿のように突貫せずにいると思う。
と、ここまで書いて、どこか自分の気持ちにしっくりきていないような感じがする。稲本、コメントくださいな。