江戸時代のアンリ・マティス

去年の夏、京都で伊藤若冲に興味を持って以来(id:yagian:20051225:1135520988)、若冲琳派の画集を眺めるようになった。
ちょうど、静嘉堂文庫美術館(http://www.seikado.or.jp/menu.htm)で「国宝関屋・澪標図屏風と琳派の美」展を、根津美術館(http://www.nezu-muse.or.jp/)で改修のための休館前の「燕子花図と藤花図」展をやっており、美術館のはしごをしてきた。
今までは、教養として根津美術館に行こうと思いつつも、実際には腰が重くて、行ったことがなかった。しかし、自ら興味を持つようになってからは、この絵のほんものを見ることができる機会を逃すわけにはいかないと、勇んで美術館に足をはこんだ。
いちばん印象に残ったのは、根津美術館に展示されていた尾形光琳の「燕子花図」(http://www.nezu-muse.or.jp/tenrankai/1.html , http://www.nezu-muse.or.jp/tenrankai/2.html)だった。教科書にも載るようないわゆる「名画」だから、図版ではよく目にしていた。金地に、あざやかな濃紺とグリーンの二色だけで描かれていて、きれいな絵だなと思っていた。実物を見ると、たしかにその通りの絵だったけれど、印象が大きく変わった。
図版で見たり、実物でも遠くから見ると、立体感のあるかきつばたの群落のように見える。しかし、近くから見てみると、花も葉も、まるでぬり絵のようにべたっと絵の具を塗っている。しかも、ラフなタッチで、きっちり塗っているわけでもない。かきつばたの配置と花と葉の重なり方だけで、遠くから見ると奥行きがあるように見せている。
この「燕子花図」のとなりに、円山応挙の「藤花図」(http://www.nezu-muse.or.jp/tenrankai/3.html , http://www.nezu-muse.or.jp/tenrankai/4.html)が並んでいる。現代書道の作品のようなかあわい線でかかれた藤の幹に、リアルに描かれた藤の花が対照的で、洗練された絵だった。
原色をくっきりと塗った「燕子花図」と比べると、「藤花図」はあわい絵である。「燕子花図」は離れて見ている人が多かったけれど、遠くからでもくっきりと見える。「藤花図」は金屏風の地の色に隠れしまい、近づかないとよく見えない。
「藤花図」は空いている静かな時間を選んで、近くから細部をじっくり眺めたい絵である。応挙の筆を運びを想像しながら藤の幹を追いかけて見る。「燕子花図」は、混んでいる時に、遠くからちらっと見ただけでも印象が強い。もちろん、近くから葉のかすれをじっくりと眺めてもいい。「藤花図」は見るための状況が整わないと楽しめないが、「燕子花図」はどんな状況で見ても楽しめる、そんな力強さがあるように思う。
静嘉堂文庫にあった俵屋宗達の「源氏物語関屋澪標図屏風」(http://www.seikado.or.jp/sub0300.htm)は不思議な絵だった。牛車、家、太鼓橋、船、松がゆがんでいて平面的に見える。もちろん、日本画は透視図法による遠近法で描かれていないから、遠近法に慣れた目で見ればどの絵も平面的に見える。しかし、宗達は、ゆがみ方が稚拙に見えるのである。
画面は単純な曲線で分割されており、「燕子花図」と同じようにぬり絵のように原色をべったりと塗っている。近くから見ると、ぞんざいにぬられており、仕上げはあまりきれいではない。
伝統的なモチーフを用いながらも、ねらいはそこにはないように見える。単純な線で画面を分割し、そこに単純な色をぬる。いってみれば、江戸時代のアンリ・マティスのようだ。「燕子花図」もマティス的である。しかし、この絵は、じつにわかりやすいデザインで完成されている。平面的に描かれながらも、遠くから見るとかきつばたの群落のように見える。マティスを知らなくても、きれいな絵だということはすぐにわかる。しかし、「源氏物語関屋澪標図屏風」は、絵の個別の要素がヘタに見える。ウマヘタ風の絵なのである。これが、ねらったウマヘタ*(追記参照)なのか、ただのヘタなのか、どうもよくわからない。
静嘉堂文庫の展覧会の入口に掲げられていた文章には、この「源氏物語関屋澪標図屏風」は、岩崎家が入手した当時は、あまり評価が高くなかったという。岩崎家が醍醐寺に寄進をした時、返礼になにがほしいと問われ、この屏風を所望したという。現在では、この屏風は国宝になっている。
私自身、マティスがどうしてあのような絵を描くに至ったのかを知っている。そういう知識を持ってこの絵を見れば、この「源氏物語関屋澪標図屏風」のよさは理解できる。しかし、そのような知識なしに、宗達と狩野派の絵を比べて見たとすれば、狩野派の絵の方を好んでいたのではないだろうか。
宗達は、明治時代、岡倉天心によって再発見、再評価されたという。西洋近代美術の見方が身についていた天心だからこそ、宗達が評価できるようになったということはよくわかる。それでは、宗達自身は、どのようなつもりであの絵を描いたのだろうか。送達も、マティスを通過した現代の人が見るのと同じような目であの絵を描いたのだろうか。それとも、まったく違う意図で書いていたのだろうか。そして、江戸初期、同時代の人たちは宗達の絵をどのように受け取っていたのだろうか、不思議であり、気になる。
<追記>
これは、ヘタウマのまちがいですね。理由は、稲本のコメントの通り。
ヘタウマについて、こんな解説がありました。(http://www.dnp.co.jp/artscape/reference/artwords/a_j/heta_uma.html)
ここで書きたかったことを「ヘタウマ−ヘタヘタ−ウマウマ−ウマヘタ」の図式を使って説明すると、こんなふうになると思う。
俵屋宗達は、経歴に関する記録もなく、生没年もわからないぐらいだから、彼の同時代では、現代ほどの高い評価は受けていなかったようだ。しかし、多くの作品が残されているし、あれだけの大きな金屏風の絵を依頼されるのだから、それ相応の評価はされていたはずである。そう考えると、同時代の人々が、宗達の絵をヘタヘタと考えていたとは思えない。ヘタウマか、それとも、ウマウマと考えていたのだろう。
宗達の絵がヘタウマと考えられていたとすれば、この当時、すでに、ヘタウマという概念(もちろん違う言葉で表現されていたはずだが)があったということになる。また、ウマウマと評価されていたとすれば、現代の私の目にはどうしてもウマウマとは見えないわけで、現代の私と宗達と同時代の人々との間で「ヘタ」と「ウマ」の評価の基準が大きく異なっていたことなる。いずれにしてもか興味深い。
そして、宗達自身は、ヘタウマを意識して描いたのか、あくまでも、ウマウマとして描いたのだろうか。宗達の「風神雷神図」(http://kajipon.sakura.ne.jp/haka/h-n-gaka.htm#sotatu)を見ると、非常にウマいと思う。もちろんヘタヘタではないし、ヘタウマを指向しているようには見えない。そう考えると、「源氏物語関屋澪標図屏風」は、自然に描いて味が出てきた(つまりヘタヘタ)ではなく、また、当時のうまいという概念に沿って描いた(つまりウマウマ)でもなく、意識的にヘタウマとして描いているようにも思える。
俵屋宗達に比べると、尾形光琳はどれを見ても、わかりやすいウマウマである。光琳は宗達を尊敬していたようだけれども、宗達のヘタウマのテイストは、あまり継承していないように見える。
ヘタウマを尊ぶ美意識は、ウマウマを尊ぶ美意識に比べて複雑である。私は、まだまだ、宗達のヘタウマ絵を楽しむことが難しい。狩野派は、現代ではすっかりウマヘタ扱いになっているけれど、江戸時代当時は、一般的にはウマウマと考えられ、宗達や光琳などの琳派より高く評価されて、絵画の主流だった。余談だけれども、狩野派琳派の関係は、同時代では主流だった林家の朱子学は現代では評価が低く、アンチテーゼだった荻生徂徠本居宣長の評価が高いことと似ている。
赤瀬川原平山下裕二「日本美術応援団」(ちくま文庫 ISBN:4480039252)に、宗達と光琳の違いについてわかりやすく書いてあったので引用する。

山下 でも光琳はその要領の良さが最高の資質だと思うんですよね。同じ琳派でも、宗達はもうお構いなしに自分勝手にやる天才だから。僕は、光琳と宗達のメンタリティーは、ある意味対極にあると思います。
赤瀬川 あっ、そうですか。
山下 宗達が絵描きとしての天才だとすれば、光琳はビシッとしたデザイナー。絵描きとしてこうグイグイ行くっていう感じではなくて、もっと結果を計算して、スパッとやってしまうタイプだったんじゃないかと思いますね。
赤瀬川 確かにね、「乱暴力」がちょっとないんですよね。

山下説によれば、「源氏物語関屋澪標図屏風」は、作者が意識的にねらったわけではない、結果的なヘタウマということになるのだろうか。