@yagian: いえいえ軽い冗談ですから。でも、自分より若い世代の人たちは、質素でまじめで勤勉で、感心だなぁと思っていますよ。 RT @yusuke_kokubo @yagian こちらこそすみません。一括りにその世代が全て悪いと言ってるわけではないのでご容赦ください…。
2010-06-22 18:39:07 via web
@yagian: ガーン!すいません…(バブル世代の私は…) RT @yusuke_kokubo 高度成長とバブルで浮かれた世代はさっさと引退して欲しいですね。 RT @jyoushi: 日本は高度成長期の立役者達が老人になった今でも同じ価値観で経営しようとするからおかしくなるんじゃねーの?
2010-06-22 18:33:42 via web
@yagian: 若い頃社会の進歩が実感できた世代だから、「頭」はポストモダンでも、「腹」がモダンのままなのだと思う。20歳代以下の人は、社会の進歩が実感できなかった世代だから、「腹」もポストモダンなのだろうか?若い人を観察していると、そんな気もしてくる。
2010-06-22 05:54:38 via web
@yagian: 自分は、ポストモダンな思想を抱いていると思っているけれど、一方で、丸山眞男の所論がすらすらと頭に入っていき、腑に落ちるところを見ると、近代の進歩史観が根強く身に付いているのだと思う。 @yinamoto 風に言えば、頭はポストモダンだけれども、腹はモダンなのかも。
2010-06-22 05:49:52 via web
@yagian: 丸山眞男の所論は、近代に向かう進歩史観に貫かれているとあらためて認識。ヨーロッパの歴史と日本の歴史の平行性(しかも、日本が一歩遅れている)を明らかにしようとしている。歴史に断絶を見るフーコーの歴史観とは相容れない。
2010-06-22 05:46:05 via web
@yagian: 続き:自然的秩序思想から転換する過程において、まず、神がすべての自然、社会の秩序を恣意的に創造するという思想が現れ、次に、社会秩序を絶対君主が自由意志で制定する段階に至った。徂徠学の聖人による作為、そして、君主による作為という思想と共通している。
2010-06-22 05:44:21 via web
@yagian: 続き:近代のゲゼルシャフト的思惟様式においては、「社会契約説」のようにすべての個人が主体的に社会秩序を作為すると考えられるが、徂徠学においては社会秩序を作為するのは聖人と君主に限られている。ヨーロッパでは、自然秩序思想から作為的秩序思想に転換する際に、絶対君主の時代を経ている。
2010-06-22 05:40:59 via web
@yagian: 続き:政治的=社会的秩序が自然に存在するとする朱子学的思惟から、主体的人間によって作為されるものとする徂徠学的論理への展開は、ヨーロッパ中世の社会意識の転換過程にほぼ対応している。しかし、徂徠学は全面的に近代的=市民的思惟様式にの上に立っているわけではない。
2010-06-22 05:38:24 via web
@yagian: 「日本政治思想史研究」第二章第四節「「自然」より「作為」への推移の歴史的意義」要約:ヨーロッパの中世から近世への移行において、社会を自然的な有機体から手段としての機械として考えるようになった。近代市民社会の形成において、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの意識の転換があった。
2010-06-22 05:36:11 via web
@yagian: 続き:社会規範を聖人の作為の産物とすることで、それ以前は、規範がない自然状態と考えることで、自然と社会規範の共通性を否定した。さらに、人格による作為の考えを進め、それぞれの時代の規範、秩序は、各時代の君主による作為によるものと考えることで、社会変革の可能性を示した。
2010-06-22 05:30:47 via web
@yagian: 続き:元禄時代に入って近世封建社会に内在する諸矛盾が休息に激化し、朱子学の自然的秩序観が全面的に覆されることとなったとき、荻生徂徠は秩序を確立する人格の問題を提起した。前章で述べたように、荻生徂徠は、自然と人間を連続的に捉える朱子学の思想を否定し、自然と人間を分離した。
2010-06-22 05:26:09 via web
@yagian: 「日本政治思想史研究」第二章第三節「徂徠学における旋回」要約:社会的秩序が自然的秩序として通用するのは、その社会的秩序が自然的秩序と見える限りにおいてである。社会的変動によって社会を自然的秩序として見ることができなくなる。その際、政治的無秩序を克服する主体的人格のが求められる。
2010-06-22 05:23:28 via web