2010年06月05日のツイート
@yagian: エピステーメーは実際に存在するのだろうか、それとも、考古学的視線によって現れてくるものなのか。存在するものをとしたら、エピステーメーが人々の間でどのように共有されるのか、また、エピステーメーはどうして変化するのだろうか。フーコー先生は説明してくれていない。
2010-06-05 21:56:02 via web
@yagian: 「言葉と物」、第七章の冒頭は分かりやすいと感じ、ついに理解できるようになったかと思ったが、後半になるとやっぱり難解になり、理解できなくなった。まあ、仕方ない。
2010-06-05 20:11:05 via web
@yagian: 続き:自然の諸物は可視的な特徴によって構成される体系に位置づけられ、命名されるのではなく、内部にある本質的な機能を担う「組織」に基づいて位置づけられる。言語は、表象されるものと語との関係ではなく、語と語の関係、屈折体系に着目する。
2010-06-05 20:07:55 via web
@yagian: 続き:この断絶によって「一般文法」は「文献学」に、「博物学」は「生物学」に、「富の分析」は「経済学」になる。物の価値は交換によって位置づけられ、貨幣によって表象されるだけではなく、価値の背後に表象に還元することができない「労働」という要素を想定する。
2010-06-05 20:03:25 via web
@yagian: 「言葉と物」第二部第七章「表象の限界」要約:古典主義時代のエピステーメーは18世紀末に断絶する。知は、同一性と相違性によって体系化された「表(タブロー)」によって秩序づけられるのではなく、要素間の相互関係によって全体として一つの機能を持つ体系にとって代わられる。
2010-06-05 19:59:51 via web
@yagian: ゴルフスクール→都電→中華料屋→クリーニング屋→スーパーと土曜日のルーティーンをこなす。
2010-06-05 13:36:28 via web
@yagian: 「言葉と物」の読書、一週間かかってようやく前半の古典主義時代のエピステーメーに関する第一部が終わった。これから近代を論じる第二部に入る。まだ高い山が目の前にそびえていて、ちょっと疲れてきた感じ。まあ、また、来週一週間かけて後半を読んでいこう。
2010-06-05 08:59:17 via web
@yagian: 続き:これは、博物学が自然のさまざまな物を体系のなかに位置づけ、命名することと平行している。このように、古典主義時代には「富の分析」が「一般文法」「博物学」と同じ配置にしたがっている。
2010-06-05 08:57:16 via web
@yagian: 続き:それは、その時代において、語と物の関係が類似に基づいていると考えられていたことと平行する。古典主義時代に入ると、貨幣はその金属自体の価値ではなく、交換体系のなかで位置づけられる物の価値を表象するものと考えられるようになった。
2010-06-05 08:55:05 via web
@yagian: 「言葉と物」第一部第六章「交換すること」要約:古典主義時代の「富の分析」は、近代の「経済学」とは断絶したものである。この時代にのエピステーメーにおいては、「生産」が存在していなかった。ルネサンス時代においては、貨幣の持つ価値は、それに含まれている希少な金属の価値に求められていた。
2010-06-05 08:52:24 via web
@yagian: 闘莉王、この二試合で3ゴール(相手に1ゴール、味方に2ゴール)の上に、ドログバを骨折させていたのか!活躍しているというか…URL
2010-06-05 05:34:24 via web