「ユリイカ」松本大洋特集

ユリイカ」2007年1月号が松本大洋特集だったので、さっそく買ってみた。なかでも、松本大洋高野文子の対談がおもしろかった。
松本大洋と自分が同じ年だったことをはじめて知った。いろんな分野で、自分と同世代がクリエーターが中心になってきている。
それはさておき、松本大洋が、いま連載している「竹光侍」を永福一成の原作で書いていることについて、こんな風に語っていた。

松本 ……僕は自分の書く原作が、『ピンポン』をやっていたあたりからもう楽しめないとうか、「自分が次にどんな話を書くんだろう?」とはもう思わなくなって……以前はA男君とB男君が戦ったらどっちが勝つか!?みたいな話を描いているのがずっと楽しくて、描きながら「どっちが勝つんだろう!?」なんてすごくワクワクしていたんですが、ある時ドーンと飽きちゃったんですよね。だってA男君もB男君も僕が作ってますから(笑)。……僕あ自分の漫画が送られてくると100回ぐらい読んでも楽しいというタイプだったんですけど、だんだん畑で野菜を植えても自分で食べられないみたいな状態になってきた。『ピンポン』をあっていた時期から永福さんに「ちょっと原作を書いてくれないか」とお願いしていたんですが、それがようやく今できているので、わりと今は「こいつ格好いいな!」とか思いながら読むというのを久々にやっている感じがあるんです。

自分は、昔からお話を作るということはないから、この感覚はよくわからない。それだけに、興味深い。
そもそも、自分でお話を作っていれば、「どっちが勝つんだろう!?」ということで興奮できる、ということ自体が不思議だ。しかし、小説家などで、登場人物が勝手に動き出して、予定と話が変わってしまう、というようなことを話す人もいる。たしかに、それだったら、自分で描いているものであっても、「どっちが勝つんだろう!?」ということで興奮できるのかもしれない。どうして、松本大洋は、その魔法が解け、お話を作るのに飽きてしまったのだろうか。作家心理というのはおもしろい。
次は、ちょっと別の視点の話。
斉藤環が書いている「「愛の風景」の回復のために」の冒頭を引用しようと思う。

 松本大洋のマンガを読んだ全員が間違いなく認めるであろうこと。それは彼の漫画が「読みにくい」ことだ。『週刊少年ジャンプ』を15分で終わらせるような漫画読み巧者が、松本の単行本一冊に一時間かかってしまったりすることは珍しくない。松本漫画はけっして速読を許さない。読み飛ばされることを許さない。それはおそらく、松本作品の持つ特異性ゆえと私は考える。

松本大洋のマンガは、ふつうのマンガよりも読むのに時間がかかるという指摘は、他の論者も指摘している。
一方、映画版「鉄コン筋クリート」のウェブサイト(http://tekkon.net/site.html)にある、監督のマイケル・アリアスのインタビューには、次のような一節がある。

――そんな中、「鉄コン筋クリート」のアニメ化を夢見続けていくわけですね。このマンガの、どういう点に特に惹かれたんでしょうか?
まず絵ですね。この頃の大洋さんの絵は、パネルごとに激しい変化があって、デフォルメも強い。そこに映画的な動性を感じたんだと思います。まだ日本のマンガ独特の記号になじみが薄かった僕には、とても入りこみやすかったんですね。

私は、もはやマンガの雑誌を読むことはない。気になる作品をコミックスで読む。
たまに、雑誌を手に取る機会があると、読みづらかったり、絵が汚いと思うマンガが多いと感じる。どうも、私が現役でマンガを読んでいた1980年代と比べると、現在の雑誌で連載されているマンガとでは、マンガの文法、感覚が変わっているようだ。
評判がいいマンガでも、絵がなじめないこともある。どうしても、マンガから切り離して、イラストレーションとしても成り立つようなきれいな絵のマンガのほうがなじみやすい。松本大洋は、その意味で、安心して読めるマンガである。そういう意味では、私の松本大洋への視線は、「『週刊少年ジャンプ』を15分で終わらせるような漫画読み巧者」よりは、マイケル・アリアスと近いかもしれない。