伊沢蘭軒、一応終わり

ちくま文庫版の「伊沢蘭軒」は、上下巻に分かれている。上巻が蘭軒が死ぬまでの話、下巻は蘭軒の子供たちの話である。ちょうど上巻を読み終えたところだが、これを区切りとして「伊沢蘭軒」の下巻、「北条霞亭」は今後の宿題として、史伝ものの読書は中断しようと思う。そろそろ、史伝もの以外の文章も読みたくなってきた。
実際に読んでみなければわからないことも多かったから、読んでみてよかったと思っている。例えば、同じ史伝ものというくくりになっているけれど、「渋江抽斎」と「伊沢蘭軒」は肌合いがずいぶん違っていることがわかった。「北条霞亭」は読んでいないからわからないけれど、独自の肌合いがあるのではないかと思う。
石川淳の評論「森鴎外」に、「渋江抽斎」と「伊沢蘭軒」の違いについて次のように書かれている。

 出来上がった作品としては「蘭軒」は「抽斎」に及ばない。うっとりした部分、遣瀬ない部分、眼が見えなくなった部分、心さびしい部分をもって、しかも「抽斎」はその弱いところから崩れ出して行かない世界像を築いている。いわば、作者のうつくしい逆上がこの世界を成就したのであろう。そういううつくしい逆上の代わりに今「蘭軒」には沈静がある。世界像が築かれるに至らないとしても、蘭軒という人間像をめぐって整理された素材の粛粛たる行列がある。

渋江抽斎」を読むと、抽斎という人間像がいきいきと伝わってくるし、また、鴎外が抽斎という人に深く思い入れていることがわかる。ひいきの引き倒しといってもよいような記述もある。それを石川淳は「うつくしい逆上」と読んでいるのだろう。確かに、その「うつくしい逆上」が「渋江抽斎」という作品の大きな魅力になっている。一方、「伊沢蘭軒」を読んでも、蘭軒という人の人間像はあまりあきらかにならないし、鴎外の蘭軒への思いもよくわからない。そのある種そっけなさを「沈静」と呼べば呼べなくもない。
この両者の違いはそれぞれの史伝の材料となった原資料の違いによるものではないかと思う。「渋江抽斎」は、その多くを抽斎の息子である文筆家渋江保が提供した材料に拠っている。その原資料が、抽斎の人となりをいきいきと伝えるものであり、また、その原資料の良さが、鴎外の抽斎への思い入れを深いものにしたのだろう。一方、「伊沢蘭軒」の原資料は、蘭軒の漢詩集と、菅茶山が蘭軒へ宛てて書いた手紙が中心である。蘭軒の書いた漢詩から彼の人となりを再現することは難しかったのだろう。また、菅茶山が蘭軒へ宛てた手紙からは、蘭軒の行動を知る手がかりにはなるが、蘭軒の人となりまではわからない。蘭軒よりも、むしろ、菅茶山の人となりの方が伝わってくる結果になっている。
石川淳は、「出来上がった作品としては「蘭軒」は「抽斎」に及ばない」と書いている。私自身は、どちらが優れた作品か、判断する基準を持たないため、判断を下すことができない。ただ、「渋江抽斎」の方が読みやすく、おもしろいため、もし、鴎外の史伝ものを読む機会があれば、こちらを先に読むことを勧める。
いずれ、「伊沢蘭軒」の下巻、「北条霞亭」を読み終わった時、この三作品の比較をしてみたいと思う。

森鴎外全集〈7〉伊沢蘭軒 上 (ちくま文庫)

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森鴎外全集〈9〉北条霞亭 (ちくま文庫)

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渋江抽斎 (岩波文庫)

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森鴎外 (岩波文庫 緑 94-1)

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