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これがマルキストの生きる道

雑感 読書 時事

アントニオ・ネグリマイケル・ハートマルチチュード」を読んだ。おもしろかった。
アントニオ・ネグリは、現代において最大の影響力を持っているマルキストだと思う。私自身は、ハイエクに共感する保守主義者だけれども、マルクスは19世紀最大の思想家だと考えているし、今でも強い関心を持っている。ハイエクの思想はマルクス(に限られている訳ではないけれど、やはり最大の対象はマルクス)を乗り越えることを目指して鍛えられた。20世紀の中頃まで、あらゆる思想家は反マルクス、親マルクスのいずれかの立場を選択する必要があり、巨大な影響を与え続けていた。
確かに、現実的、実際的な政治体制としてのマルキシズムは色あせてしまったけれど、思想としての意味が失われたわけではない。とはいえ、「思想」としてマルクスを読むことに不都合はないけれど、現実的な政治体制の改革を目指すマルキストとして現代の世界を生きるということはどういうことなのか、不思議に思う。そんな関心もあってアントニオ・ネグリを読んだ。
ベルリンの壁の崩壊、インターネットの普及以後の世界、国民国家、戦争の分析については、説得力もあったし、示唆に富む本だと思う。ハンチントン文明の衝突」よりははるかに納得した。しかし、残念ながら、現代のマルキストとしての政治的な運動(ネグリの用語を用いれば「政治的プロジェクト」)の部分は説得力がなかった。
まず、現代の「戦争」に関するネグリの分析について引用しようと思う。

…従来、戦争とは主権をもつ政治的存在―近代期においては国民国家―同士の武力衝突であると考えられてきた。…戦争は今やグローバルで果てしない、全般的現象となりつつあるのだ。

…近代の主権理論―自由主義的なものであれ、そうでないものであれ―のひとつの大きな柱は、戦争を社会の周縁へと追いやり、孤立化させ、例外時にのみ限定することによって、内線に終止符を打ち、恒常的な戦争状態を消滅させることだった。主権を有する至高の権威、すなわち君主あるいは国家だけが戦争を起こすことができ、その相手は別の主権権力に限られるという考え方である。言いかえれば、戦争は国の内部の社会領域から追放され、国の外部で国家対国家という形でのみ起こせるということだ。こうして戦争は例外となり、平和は常態=規範となった。…

 しかし今日の世界は…永続的で不確定な戦争状態という悪夢へと突如逆戻りし、国際的な法の支配は中断され、平和の維持と戦争行為の区別さえ曖昧になっている。主権国家間の限定的な衝突が前提としていた、戦争の時間的・空間的な孤立性が弱まり、戦争は今や社会の領域全体と洪水のように覆い尽くしているように見える。例外状態が永続的かつ全般的なものとなったわけだ。

 「例外状態」とは…戦時のように重大な危機と危険にあっては憲法は一時的に停止され、共和国を守るための強力な執行部(場合によっては独裁者)に特別な権限を与えるべきだとの考え方が生まれたのである。…

憲法を守るために憲法を一時停止することを求める、例外状態という立憲概念には、明らかな矛盾がある。もっともこの矛盾は、危機と例外が続くのは短期間であることを理解すれば解消する…しかし今日みられるように、危機がもはや特定のものでも限定的でもなく、全般的な偏在する危機となり、戦争状態と例外状態が無際限で永続的なものとすらなったとき、この矛盾は完全にあらわになる。…

 今日、危機的状況下では法的保証や個人の自由が制限されてもやむなしとする例外状態は地球規模に広がっている。
(上巻pp29-39)

ネグリのこの情勢判断は概ね正鵠を射ていると思う。
もちろん、国内の平和を「常態=規範」として維持できる主権国家は世界のなかで一部であり、内戦が常態化していた地域は歴史を通じて常にあった。しかし、主権国家間の戦闘ではない戦闘はある地域内に限定されていたが、そのような内戦が国際的なテロリズムという形態でグローバル化したのは現代的な現象である。さらには、アフガニスタン北朝鮮のように「主権国家」がテロリストに事実上乗っ取られたり、国際的なテロリズムを支援するようになった。その結果、「テロリズムとの戦い」という「例外状態」が一般化した。
確かに、「冷戦」においては、全面的な核戦争の危険性、恐怖や東西の周縁部での戦争があった。しかし、強力な主権国家内では概ね平和が保たれていた。現在の「テロリズムとの戦い」では、戦いの対象、開戦と終戦も明らかではなく、あいまいな形で「例外状態」が継続している。
そこでどうすればよいのか。ネグリが提示する概念が「マルチチュード」である。

…人民は、伝統的に統一的な概念として構成されてきたものである。いうまでもなく、人びとの集まりはあらゆる種類の差異を特徴とするが、人民という概念はそうした多様性を統一性に縮減し、人びとの集まりを単一の同一のものとみなす。「人民」とは一なるものなのだ。マルチチュードは多なるものである。マルチチュードは、単一の同一性には決して縮減できない無数の内的差異からなる。
(上巻p19)

ネグリは、これまでの主権国家の理論は、主権者が皇帝であれ、国民であれ、人民であれ、一者による支配を基礎に置いていたという。ルソーの社会契約論においても、国民国家は、国民による統合された「一般意志」に基づくとされる。しかし、主権国家が機能しなくなっている現在においては、統一されないマルチチュードに基礎をおいた民主主義の成立を展望する。

 マルチチュードの意思決定能力を理解するには、コンピュータソフトウェアの共同開発や革新的な「オープンソース」運動とのアナロジーも役に立つかもしれない。…ここで重要なのは、オープンソース方式による協働的なプログラミングは決して混乱やエネルギーの無駄をもたらさないということである。実際、これはうまくいく方法なのだ。とすればマルチチュードによる民主主義は、ひとつにはオープンソース社会として理解することができるだろう…

 マルチチュードの創造とネットワークにおけるマルチチュードの革新、そして<共>にもとづくマルチチュードの意思決定能力によって、今日初めて民主主義は可能なものになった。政治的主権と一者の支配は、これまで歴史を通じて、あらゆる現実的な民主主義の概念を失効させてきたが、それはもはや不必要なだけでなく、まったく不可能なものになりつつあると見られる。主権とは常に、一者の神話にもとづいたものであるにもかかわらず、被統治者の同意と服従にもとづく関係にほかならなかったのである。この関係のバランスが被統治者の側に傾き、彼らが社会的諸関係を自律的に生み出す能力を獲得してマルチチュードとして立ち現れるなか、単一の主権者はますます不必要なものとなりつつある。マルチチュードの自立性とその経済的・政治的・社会的自己組織能力が主権者の役割を奪い取ったのである。…
(下巻pp237-238)

確かに、オープンソースマルチチュードの民主主義の可能性を見たい気持ちはわかる。しかし、オープンソースが成功するのは、かなり限られた条件に基づいていると思える。
ジャスミン革命」のように独裁者が倒され、選挙が行われ、形式的には「民主主義政体」が成立する。しかし、その国の人びとが「国民」として構成されないため、混乱し続ける国がいたるところにある。そのような国の人びとがマルチチュードとして自律的な秩序を形成する事例を見たことがない。
ネグリの理想は理解できるけれども、マルチチュード国民国家に代わりうる現実的な政治的プロジェクトになりうるとは思えない。むしろ、マルチチュードに近いものは、ネグリが肯定していない「市場メカニズム」だと思う。
アーサー・ソルターの市場メカニズムの定義を紹介したい。

通常の経済システムはひとりでに機能している。その経常的な運行に、中央による統制も中央による監視もなんら必要としない。人間の活動と人間の必要のすべての領域にわたって、供給は需要に、生産は消費に、自動的で弾力的で敏感に反応する過程によって調整される。
(ロナルド・H・コース「企業・市場・法」p40)

オープンソースの創始者の一人であるエリック・レイモンドは、これまでのソフトウェアの開発方法を「伽藍」と呼び、オープンソースによる開発方法を「バザール」と呼んでいる(http://goo.gl/CFoB)。皮肉なことに、いうまでもなくバザールとはまさに市場を意味している。
私は、ポスト民主主義の方向性について「バザール」という言葉をキーワードとして考えている。いずれまた、このことについて考えてみようと思う。

マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)

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マルチチュード 下 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)

マルチチュード 下 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)

社会契約論 (岩波文庫)

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企業・市場・法

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