天皇制民営化論
前回の日記(id:yagian:20120506:1336255010)ではFacebookの宗教欄に書いたけれど、今回は政治的な主義の項目(http://www.facebook.com/yagian/info)をきっかけに書いてみたい。
このウェブログにもしばしば書いているけれど、私の政治的な信条はハイエクに近いので、大雑把にいえば保守、右翼という分類になる。稲本(id:yinamoto:20120507)が「保守」という概念に書いているけれど、保守や右翼にもいろいろあって、私自身はいわゆる国家主義的な保守主義者(私の目から見れば保守主義と国家主義は相容れないはずだけれども)とは立場が大きく異なっている。
私の考える保守は、人間の理性には限界があると考えることが出発点となっている。だから、一部の限られたエリート、官僚などによって立案された「計画」よりは、より多くの人々の衆知を集めた市場を通じた分配や、時間を経て淘汰され生き残ってきた伝統の方がより優れていると考える。革命によって社会を一気に覆すことでよりよい社会を実現することはほとんど不可能だと考えるが、一方で、単に過去の伝統、制度を守旧すればよいとも考えない。市場や伝統を生かしつつ、部分的な改良を積み上げることでよりよい社会を作ることができるという立場である。ポパーはそのような改良主義をピースミールエンジニアリングと呼んでいる。
政府も伝統的な存在だから、それをすべて否定する訳ではないけれど、少数の人間が統制する政府という仕組みにはあまり信頼せず、なるべくその役割はなるべく制約した方がよいと考える。
思想的な流れからすると、イギリスの経験論に立脚しており、デカルト、カント、ルソーなどの大陸ヨーロッパの主知主義に反対する。保守主義である以上、当然ながら共産主義には反対する訳だが、仮想的な社会契約の理論に基づくフランス革命にも反対の立場をとる。
第一次世界大戦、世界大恐慌後、レッセ・フェールの資本主義がうまく機能しなくなったとき、国家による経済の統制を主張する共産主義とファシズム(国家社会主義)が勃興した。国家、政府による「計画」を重視するという意味では、共産主義とファシズムの両方に対して保守主義は反対する。
戦前、戦中の日本では「転向」という現象があったが、共産主義から国家社会主義への転向は、保守主義の立場から見ればいずれも国家の統制を重視する立場だから、さほど不思議な現象とは思えない。
最近はあまり耳にしなくなった言葉ではあるが、いわゆる「ネオコン」と呼ばれる人の多くは、極左の出身者が多い。アメリカでは共産主義、社会主義の立場からの国家による統制が実現しないことに飽きたらなくなった彼らが、右翼に転向して「強い国家」としてのアメリカが世界秩序を形成すべしと主張するようになった。また、日本でも渡邉恒雄はかつて共産党系の学生運動をしていたが、その彼が国家主義的な中曽根康弘と盟友になっているのも理解できる。
一方、第二次世界大戦前に、反ファシズムのため今日共産主義者とアナーキストの連携する人民戦線という立場がが主張されたが、スペイン市民戦争をはじめとして結局は人民戦線は破綻した。政府や国家による管理、統制への立場という意味では、共産主義とアナーキズムは大きな隔たりがあり、最終的には協調できないことは当然である。
私自身はリバタリアンほど徹底はしていない(だからあいまいに「ハイエク主義者」を名乗っているが)けれど、反政府的保守主義を突き詰めるとアナーキズムに接近する。右翼と左翼の違いはあるけれど、共産主義はファシズムと、保守主義はアナーキズムに親和性がある。
北一輝を読んでいると、君主制を認めた理論的に混乱した共産主義の劣化版のような印象を受ける。一方、私が共感できる戦前の論者は、自由主義者である石橋湛山(id:yagian:20120505:1336174548)とアナーキストの大杉栄である。
現代の日本において私の考える保守主義にいちばん近い立場の政治家は、小泉純一郎である。しかし、小泉純一郎は個人としてカリスマ性のある政治家だったけれど、この立場は日本ではあまり歓迎されないようで、今では私が共感できる政治家、政治勢力はほとんどいない。保守主義、右翼というと、石原慎太郎のような国家主義的な保守主義者になってしまい、私の考える立場とはほど遠い。
国家統制的な色彩が濃い日本では、保守主義は国家主義と結びつくし、また、左翼もアナーキズムが力を得ることがない。
国家主義的な保守主義者の主張で違和感を感じるのは、国家や政府への根拠なき信頼と「日本の伝統」への考え方である。結局、国家主義的な保守主義者は、国家の強化に利用できる範囲での「日本の伝統」に興味があるに過ぎず、ほんとうの意味での伝統に関心がないように見える。だから、自分に都合よく歪められた歴史、伝統にしか関心がなく、現実の歴史や伝統を直視しようとしない。
例えば、天皇の問題である。天皇が日本という国家を統合する存在になったのは明治以降、せいぜい幕末からである。国家主義的な保守主義者が考える天皇制は、明治以降のものであって、それ以前の天皇と天皇に関わる歴史や伝統には基本的には興味がない。
日本のハイカルチャーの伝統は社会の大衆化に伴ってどんどん崩壊している。天皇も国民国家の統合に利用される前は、日本の民衆とは隔絶してハイカルチャーを支えるハイソサエティの住民だった訳だけれども、明治以降、天皇は大衆に消費される存在になっている。
いまの天皇は、大衆に消費される存在、一種の「スター」「セレブ」としての天皇の役割を非常に努力して果たしているように見える。その姿はかなり痛々しい。また、ある意味凡人である皇太子夫妻はそのような苦痛を伴う役割を果たすことができていない。個人的にはそのような天皇と皇太子は嫌いではないけれど、彼らをそのような立場に追い込んでいる国家主義的な保守主義者を含めた「国民」にはいささか嫌悪を感じる。
国家主義的な保守主義者はそのような天皇の現在のあり様をどう考えているのだろうか。私は、天皇は日本の「滅びゆく伝統」を少しでも継承する存在であってほしいと思う。民主主義の国民国家の君主という存在である以上、大衆に消費されることは避けられない。だから、憲法から天皇の規定を削除して、政府とは無関係な存在にすべきだと思っている。私はそれを天皇民営化論と呼んでいる。
京都御所を天皇家の私有財産として与え、京都や奈良にある伝統的な大寺院のようにハイカルチャーを伝承する立場を守って欲しいと思う。京都に行くと、天皇にまつわるさまざまな伝統があり、やはり天皇は京都にいるのがふさわしいと感じる。東京では、天皇と結びついた儀礼はほとんどないし、それに比べれば京都には天皇が戻ってくることを待っている人たちも多いと思う。本来、そのような天皇のあり様こそが天皇の伝統にふさわしいと思う。
国家主義的な保守主義者は、国家に利用できない天皇には関心を示さないのだろうか。それとも、真に伝統的であり、ハイカルチャーの伝承者である天皇を支持するのだろうか。