真の保守主義者としての津田左右吉

津田左右吉歴史論集」を再読した。あいかわらず津田先生(先生と呼びたくなるお人柄なのである)は実に率直で、読んでいて実に爽快、痛快だった。
津田先生はいわゆる「空気」をまったく気にせず、自分の興味関心に忠実にしたがって研究を進め、自分が正しいと考えたことを素直に書く。そして、あまりに率直すぎて、意図せずそこはかとないユーモアが漂ってしまう。学者ってこうあるべきだと思うし、人として自分もこうありたいと思う。
丸山眞男の著作を読むとこの人はほんとうに頭がいいと圧倒されてしまうが、津田先生の著作を読むとその人柄に触れられることがうれしく思われる。
津田先生は、記紀の批判的研究や中国古代の思想史の研究で著名である。しかし、この本の冒頭に置かれた「学究生活五十年」を読むと、そもそも古代の研究をしようと思ったわけではないらしい。最初は明治維新について勤王論以外の立場から考えてみたいということがきっかけだったらしい。しかし、明治維新のことを知るためには江戸時代初期の思想について知らなければならないことがわかり、そのためには、ということで日本の歴史を遡って研究していたら記紀にたどり着き、さらにたどっていったら中国古代の思想史に至ってしまったという。たしかに、明治維新のことを知りたければ中国古代思想まで遡ってしまうことは理解できるけれど、普通はそこまで徹底することはできないし、その当時の流行などに研究のテーマが左右されてしまう。
「学究生活五十年」に次のように書かれている。

…ぼくがいくらか学問上のしごとをしたとするにしても、その大部分は一般の学界とは殆どかかわりあいのないものであったから、ぼくの閲歴はぼくだけの問題であって、それによって学界の動向などが知られるわけでもなく、従ってそれを書くことに大した意味はない、という理由もあった。
(p5)

確かに、津田先生は東京大学を中心とした「学界」のヒエラルキーの外にいたし、彼自身の認識としては「学界」の動向とは関係なく自分の関心を追求していたのだろうと思う。しかし、「学界」や「世間」の方は、津田先生のことをあれこれ勝手に忖度し、自分の思いを投影している。
今の目で読むと津田先生の書かれていることはごくまっとうなことである。しかし、戦前、記紀の批判的研究が問題となり、起訴され早大教授を退任することになった。いくつか津田先生の戦前の発言を引用したい。

 もう、とっくに、そんなところを通り越している時代だと思うが、それでも今なお世間の一隅には、我が国固有の風俗とか固有の国民的精神または国民性とかいうことを高唱しているものがある。風俗とか国民的精神とか国民性とか言うものが、昔から今まで動かないで固まっていたものででもあるかのうように聞こえる。が、そんな考が事実に背いていることは言うまでもなかろう。

…現在の新しい思想を考えるについても、それと同じものが昔にもあったように説く。今日の立憲政体は神代史にも現れている我が国固有の政治思想の発現であるという。あるいは、聖徳太子憲法にもデモクラシイの精神があるなどという。まるで昔時代をわきまえず、その時代の精神をも解せざるものである。のみならず、現在の事実も知らぬものである。
(pp84-90)

今でもこの種の主張、牽強付会はよく目にするけれど、津田先生の言われていることは実に尤もである。しかも、これが戦前に語られたものだということが重要である。

 東洋文化とか東洋思想とかいう語が西洋文化または西洋思想と対立する意味において一部の人士に用いられるのは、かなり久しい前からのことであって、日本人の文化、日本人の思想がやはりその東洋のであり、従ってそれが西洋の対立するもののごとく説かれるのである。…一体、東洋文化とか東洋思想とかいうのは何を指すのであるか。あるいは寧ろ、そういうものが存在するのであるか。…日本と支那と印度との文化は果たして東洋文化として総称し得られるようなひとつの文化であるか、少なくとも何らかの共通のものがあるか、仮にあるとしたところで、それは果たしていわゆる西洋文化に対立するものであるか。
(p136-139)

つまり、「東洋」という概念は、ヨーロッパから見た「ヨーロッパ以外の当方の地域」というものであり、「東洋」それ自体には自立した統一性はないという。そして、ヨーロッパに発した概念を、「東洋」に属する日本が自ら取り入れて、あたかも「東洋文化」や「東洋思想」という実体があるかのように語られていると指摘している。サイードの言うところの「オリエンタリズム」をはるか以前に先取りしたような主張である。

…しかし一方からいうと、そういう見解のうちには、往々、確かな方法と論理とを欠いている思いつきや感じから成立つもの、或る一面のみを見てそれによって全体を解釈せんとするもの、また特殊の主張なり学説なりを強いて我が国の上代にあてはめようとするものなど、学問的の研究としてはかなりに不用意なものがあるのではなかろうか。思いつきや感じも学問の研究に大切であり、自己の目に映ずる一面のみに過大の価値を置くのも、免れ難き人情の常ではあるが、学者の用意としては、方法論的省察と、論理的の整理と、並に視野の広いまた多方面からの観察とが、要求せられるであろう。そういう主張が如何にして作り上げられたかを先ず検討してかからねばならぬではあるまいか。
(p116-117)

津田先生、まったくご指摘その通りです。学者とはかくあらねばならないものです。
ここで書かれている「思いつきや感じから成立つもの」とは主に国粋的な歴史学、「特殊の主張なり学説」とはマルクス主義的歴史学を念頭に置かれているのだろう。歴史は歴史学としての方法論と観察に基づくべきであり、右翼、左翼といった特定の政治的な立場から独立している必要が指摘されている。
津田先生は、戦前、堂々と国粋的な歴史学を批判し、記紀の批判的研究をしていたから、右翼から激しく攻撃され、出版法違反に問われ、早稲田大学教授を辞めることになる。このため、戦後になると、そのような経歴からヒーローとして扱われ、持ち上げられるようになる。
しかし、戦後まもなく次ように皇室を擁護する文章を書き、津田先生によせられていたある種の期待をあっさり裏切ってしまう。

…しかし事実としては、皇室はたかいところから民衆を見おろしてまた権力を以て、それを圧服しようとせられたことは、長い歴史の上において一度もなかった。いいかえると、実際政治の上では皇室と民衆は対立するものではなかった。…国民が国家のすべてを主宰することになれば、皇室はおのずから国民の内にあって国民と一体であられることになる。具体的にいうと、国民的結合の中心であり国民的精神の生きた象徴であられるところに、皇室の存在の意義があることになる。そうして、国民の内部にあられるが故に、皇室は国民と共に永久であり、国民が父祖子孫相承けて無窮に継続すると同じく、その国民と共に万世一系なのである。
(pp319-320)

津田先生が戦前に書かれている文章を読むと、先生は安易な国粋主義を批判すると同時にマルクス主義をも批判している。だから、皇室を擁護する発言をするのは不思議ではないし、思想としては実に一貫している。おそらく、先生は戦前も戦後も変わらず真の意味での保守主義者であって、その立場から国粋主義マルクス主義も批判していたのだと思う。
津田先生の文章を読んでいると、やはり真の保守主義者としてのハイエクの言葉(「市場・知識・自由」)を思い出す。

…真の個人主義の根本的な態度は、いかなる個人によっても設計されたり、理解されたりしたののではないのに、しかも個々人の知性を超えるまことに偉大な事物を人類が達成した諸過程に対する、謙遜の態度である。…個人の理性によって意識的に統制されるものではないものは何であれ、損益しようとしない現代的知性の不遜さがまだ間にあううちにとどまるべきところを学びとらないならば、エドマンド・バークがわれわれに警告したおとりに、われわれは「われわれをとりまくすべての事物が小さくなっていって、ついにはわれわれの関心事がわれわれの知性の容積まで縮まるであろうと確信させられる」かもしれない。
(pp40-41)
…誰も設計したのではなく、誰にも理由がわからないかも知れない社会過程の産物に、普通に従おうとする心構えもまた、強制をなくすべきであるならば欠くことのできないひとつの条件である。…慣習と伝統が人間の行動を大幅に予測可能にしている社会においてだけ、強制を最小限にしておくことが多分できるのである。
(p29)

つまり、ハイエクは、マルクス主義、社会主義に限らず、個人の知性によって社会を設計するよりは、個々人を超えた集合体としての人間によって形成された社会の方が優れていると考えている。そして、そのような集合体としての人間の知性の表現として、価格メカニズムによる市場や慣習や伝統といったものを重視する。ハイエクというと市場主義者という印象があるかもしれないけれど、それと並んで慣習や伝統を重視するというイギリスに伝統的な経験主義に立脚していることを見逃してはならないだろう。
津田先生は、市場主義者ではないけれど、個人の理性による特定の「主義」に基づく歴史解釈に対しては、それがどのような政治的立場に基づくものであっても厳しく批判する。あくまでも、人々の生活の事実に立脚した歴史を重視する。「保守主義」というと、いわゆる「右翼」「国粋主義」と結び付けられがちだけれども、真の保守主義の立場からは、慣習、伝統、歴史を歪めるような解釈はマルクス主義と同様に批判の対象となる。
私は、FacebookのPolitical Viewの欄に”Conservatism, Hayekizm”と書いているけれど、このような意味での真の保守主義を意味しているつもりである。

津田左右吉歴史論集 (岩波文庫)

津田左右吉歴史論集 (岩波文庫)

市場・知識・自由―自由主義の経済思想

市場・知識・自由―自由主義の経済思想