「日本政治思想史研究」近代主義者としての丸山眞男

丸山眞男「日本政治思想史研究」を読み終わった。
好き嫌いでいえば、好きな本と思う。なぜ好きなのか、その理由を考えてみたい。
この本を読んでいちばん印象に残ったことは、丸山眞男が近代国民国家を支持している近代主義者ということである。丸山眞男の所論は、近代に向かう進歩史観に貫かれている。ヨーロッパの歴史をモデルとして江戸時代にあてはめ、日本とヨーロッパの歴史の平行性、しかも、日本が一歩遅れて、不完全であることを明らかにしようとしていると思う。
「日本政治思想史研究」の元になった論文は、思想的な統制が厳しかった戦時中に書かれたものである。その時代において、近代主義者だった丸山眞男は、その時代の日本の国家のあり方、政府を直接的に批判することができず、江戸時代の思想家の封建制への「消極的」な批判に仮託して、当時の社会への批判と、積極的な批判勢力が不在であるという現実を示そうとしていたのだと思う。
「明治時代は全市民的=近代的な瞬間を一時も持たなかつたのである。しかし、この後の問題はなかなか重大であつて、なほ別に詳細な検討を必要とる。(p317)」これが、丸山眞男がこの本で最も主張したかったことだろう。
しかし、このような思想、歴史観は、この前まで読んでいた歴史に断絶を見るフーコー歴史観とは相容れない。自分は、フーコーに共感し、ポストモダンな思想を抱いていると思っているから、丸山眞男の進歩的歴史観近代主義には合意することができない。
けれど、一方で、丸山眞男の所論がすらすらと頭に入っていき、腑に落ちるところを見ると、近代の進歩史観が根強く身に付いているのだと思う。稲本(id:yinamoto) 風に言えば、頭はポストモダンだけれども、腹はモダンなのかもしれない。それが、「日本政治思想史研究」を読んでいて気持ちがよく、好きな理由なのだろう。
若い頃社会の進歩が実感できた世代だから、「頭」はポストモダンでも、「腹」がモダンのままなのだと思う。20歳代以下の人は、社会の進歩が実感できなかった世代だから、「腹」もポストモダンなのだろうか。若い人を観察していると、そんな気もしてくる。彼らが丸山眞男を読んだらどのような感想を抱くのか興味がある。

「日本政治思想史研究」要約
第一章 近世儒教の発展における徂徠学の特質並びにその国学との関連
第一節 まへがきー近世儒教の成立

  • 徳川時代の日本において儒教は二つの理由で飛躍的な発展を遂げた。
  • 一つは、徳川時代の社会体制が、儒教が前提としていたシナの社会体制と類似していたという客観的理由。二つ目は、近世初期において儒教が思想的に革新されたという主観的理由。
  • この朱子学派・陽明学派から古学派への近世儒教の発展過程によって、儒教思想自体が分解し、全く異質的な要素を生み出した。本章では、徂徠学が、これを継承しながら転換した宣長学の成立をいかに準備したかをたどる。

第二節 朱子学的思惟様式とその解体

  • 徳川時代初期においては朱子学が受容されたが、徂徠学への展開によって朱子学の解体が進んだ。
  • 朱子学の特徴は、体系性、連続性にある。朱子学の根本観念である理は、自然の法則であり、道徳的規範でもあり、自然と人間を連続的に把握する。社会に対しても、個人の徳が天下の太平の基礎となるというように連続的に把握される。また、朱子学には静的な性格がある。このような特質は、戦国時代から固定した秩序の上に成立した近世封建社会の安定の実現に対して機能した。
  • しかし、元禄時代において、山鹿素行伊藤仁斎貝原益軒を経て荻生徂徠の古学に向けて、朱子学の体系性、連続性が解体し、自然の法則と道徳的規範、個人の徳と政治が区分されるようになり、静的な性格から動的な性格への思想の移行が進んだ。

第三節 徂徠学の特質

  • 朱子学は、自然の法則と人間の規範、個人の道徳と社会の秩序を「理」という概念で統一的に把握していた。荻生徂徠は、それを分解し、「道」の目的を「治国平天下」という政治的な側面に限定した。このことにより、独立した公的な領域として政治を検討することができるようになり、これに対して、私的な領域は朱子学的なリゴリズムから解放され、文芸が繁栄することとなった。
  • このような思想の背景には、商品経済の浸透による封建社会の変動がある。社会的変動が起こりつつある状況において政治的思惟が現れる。徂徠学ではそのような状況に置かれることにより儒教を「政治化」した。荻生徂徠は、徳川封建時代が生んだ最初の偉大なる「危機の思想家」であった。

第四節 国学とくに宣長学との関連

  • 徂徠学は徳川時代儒学の頂点であり、徂徠学の凋落以降、それに代わって国学が思想界のヘゲモニーを握った。国学者儒学、ことに徂徠学を批判し、主観的には関連性を否定するが、客観的には深い関連性が見られる。
  • 徳川時代初期、山崎闇斎に代表されるように神道朱子学に理論的根拠を求めてきたが、聖人を絶対視する荻生徂徠朱子学と混交した神道を否定した。国学も、神道朱子学との混交を批判する。また、人格を持った聖人を絶対視する徂徠学と同様に、人格を持った皇祖神を絶対視する。
  • さらに徂徠学と国学を完成させた宣長学の共通点として、以下の二点が指摘できる。第一点として、人格的実在に対する絶対的尊信と表裏一体として、その人格的実在をそのまま理解するために、文献解釈に恣意性を排除することを指向した文献学的=実証的方法論がある。
  • 第二点として、徂徠学は勧善懲悪史観を否定した。宣長学においては、歴史は不可知である神の意志に帰すると考え、天命のような超越的規準による歴史の合理化を否定し、歴史的事実にあくまでも忠実であった。徂徠学では、個人と社会の倫理を分離することで、個人におけるリゴリズムを否定した。宣長学では、社会の規範性を否定し、人間の自然性を積極的に位置づけた。徂徠学では、文芸の倫理、政治から解放したが、宣長学では、倫理と分離された「もののあわれ」を文芸の基礎に置いた。
  • 宣長の古道は規範を否定したものだが、その後継者である平田篤胤においては、古道は政治的イズムとなる。

第五節 むすび

  • 本章では近世儒教の自己分解の過程を通じた近代意識の成長を跡づけた。近代意識は合理性を特徴としているが、「合理的」な朱子学から「非合理的」な徂徠学、国学への展開が、近代意識の成長の基礎なった。ヨーロッパにおいても、近代意識の成立過程において、「合理的な」スコラ哲学の「主知主義」から理性的意識の対象を信仰に領域に委ねた唯名論者が自然科学の勃興への道を開いたことと共通性を持っている。
  • また、朱子学の合理主義が強い道学性を持っており、徂徠学や宣長学による朱子学の合理主義の解体は、政治、歴史、文学などの諸領域への倫理の規制を解き放ち、文化価値の自立を促した。この「分裂せる意識」は近代意識の最も象徴的な表現だった。

第二章 近世日本政治思想における「自然」と「作為」ー制度観の対立としてのー
第一節 本稿の課題

  • 徳川時代の思想は、明白な反封建意識に到達しなかったが、「近代」思想の論理的鉱脈を多々探り当てることができる。本章では、朱子学から徂徠学に至る近世儒教思想の展開を、封建的社会秩序の見方と基礎づけの方法にどのような違いが生じているのかを考察する。その際、「自然」と「作為」という二つの概念を指標とする。この二つの概念は、中世的な社会=国家制度観、近代的市民的なそれとの対立に対応する。

第二節 朱子学と自然的秩序思想

  • 徳川初期の思想界を独占した朱子学においては、自然界の理は人間の先天的本性となり、社会関係を律する根本規範と考えられた。この思想は、勃興期の封建体制の社会秩序を、自然的なものとして基礎づけた。

第三節 徂徠学における旋回

  • 社会的秩序が自然的秩序として通用するのは、その社会的秩序が自然的秩序と見える限りにおいてである。社会的変動によって社会を自然的秩序として見ることができなくなる。その際、政治的無秩序を克服する主体的人格が求められる。
  • 元禄時代に入って近世封建社会に内在する諸矛盾が急速に激化し、朱子学の自然的秩序観が全面的に覆されることとなったとき、荻生徂徠は秩序を確立する人格の問題を提起した。
  • 前章で述べたように、荻生徂徠は、自然と人間を連続的に捉える朱子学の思想を否定し、自然と人間を分離した。社会規範を聖人の作為の産物とすることで、それ以前は、規範がない自然状態と考えることで、自然と社会規範の共通性を否定した。さらに、人格による作為の考えを進め、それぞれの時代の規範、秩序は、各時代の君主による作為によるものと考えることで、社会変革の可能性を示した。

第四節 「自然」より「作為」への推移の歴史的意義

  • ヨーロッパの中世から近世への移行において、社会を自然的な有機体から手段としての機械として考えるようになった。近代市民社会の形成において、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの意識の転換があった。政治的=社会的秩序が自然に存在するとする朱子学的思惟から、主体的人間によって作為されるものとする徂徠学的論理への展開は、ヨーロッパ中世の社会意識の転換過程にほぼ対応している。
  • しかし、徂徠学は全面的に近代的=市民的思惟様式にの上に立っているわけではない。近代のゲゼルシャフト的思惟様式においては、「社会契約説」のようにすべての個人が主体的に社会秩序を作為すると考えられるが、徂徠学においては社会秩序を作為するのは聖人と君主に限られている。ヨーロッパでは、自然秩序思想から作為的秩序思想に転換する際に、絶対君主の時代を経ている。自然的秩序思想から転換する過程において、まず、神がすべての自然、社会の秩序を恣意的に創造するという思想が現れ、次に、社会秩序を絶対君主が自由意志で制定する段階に至った。徂徠学の聖人による作為、そして、君主による作為という思想と共通している。

第五節 昌益と宣長による「作為」の論理の継承

  • 徂徠学では、元禄享保期の封建体制の動揺を克服するために、社会規範、秩序を作為によるものとし、徳川将軍の作為によって社会的混乱を克服することを目指した。
  • 安藤昌益は、農民が自ら生産し、それに基づき生活する「直耕」が社会の本来の姿であり、武士や儒者などは農民に寄生する存在と主張した。儒教的な倫理、社会秩序は、先王が自らの利益のために創り出したものであり、先王以前の「直耕」が実現していた自然の社会に回帰することを主張した。安藤昌益の儒教批判は、荻生徂徠による朱子学の否定、さらに、荻生徂徠の否定という思想的発展に基礎づけられている。しかし、安藤昌益は封建社会を批判したが、「直耕」の世界は自然に基づくため、封建社会を改変する人格による主体性、方法論は示されなかった。
  • 本居宣長は、一切の人間的作為を否定し、現状の封建社会の秩序を自然として肯定した。その現状の自然の根拠は、皇祖神の作為によるものとした。このため、現状の封建社会の肯定は、皇祖神が現在の社会を作り上げた限りにおいてであり、時代が変わり社会秩序が変革されれば、それが自然となる。本居宣長においては、朱子学のように現状の封建社会を自然の理のような絶対的な実質的な価値によって肯定するのではなく、消極的に現状の封建社会は肯定しているにすぎない。

第六節 幕末における展開と停滞

  • 天明・寛政期に入ると、幕藩体制は内部的な崩壊と外国からの脅威にさらされ、支配層はその隠蔽と弥縫に腐心し、もはや人為的な改革を指向する徂徠学が許容されず、寛政異学の禁において、自然的秩序を指向する朱子学が再興された。
  • さらに、外国の脅威が高まると、外国の脅威に対する国内的一致の要請によって、水戸学などの自然的秩序思想が復活し、尊王論攘夷論が結合した。しかし、幕末になると、封建的身分制を超えて国民の精神的一致の必要性が認識され、吉田松陰などにより尊王攘夷論は一君万民的なものに転化した。
  • 明治維新後、国家体制が急速に近代化され、封建秩序が自然的秩序ではないことが現実によって明らかとなり、文明開化の思潮によって、封建的秩序が主体的作為の立場から批判された。しかし、自然的秩序思想は全く姿を消したのではなく、自由民権運動の反対者のなかに見られるようになった。新たな自然的秩序思想は、主体的な個人より自然的な国家を先行するものと考えた。徳川時代の思想は全封建的ではなかったが、それとは逆に、明治時代の思想は全市民的=近代的なものとはなりえなかった。

第三章 国民主義の「前期的」形成
第一節 まへがき−国民および国民主義

  • ある集団が「国民」となるためには自らを政治的統一体として意識、意欲する国民意識の成立が必要であり、これが近代国家成立のための不可欠な条件である。国民国家の形成、発展の様態は国によって多様であり、また、国民意識に基づく「国民」という存在は、外的刺激などを契機とする一定の歴史的条件段階の産物でり、自然的自生的存在ではない。

第二節 徳川封建制下における国民意識

  • 日本において国民意識の誕生は、世界市場形成という歴史的必然による外国勢力の渡来による明治維新を待たねばならなかった。徳川封建制においては、支配階級、被支配階級が画然と分離され、地域間も分離されており、国民を統一する意識は存在しなかった。被支配階級においては、権利とともに政治的責任が与えられず、国家への参加意識はなかった。また、支配階級においても責任意識は国家ではなく、直接の主君を対象としていた。このような状況は、国民的統一的意識の醸成を阻んでいたが、徳川幕府はこの状況を最大限に利用して支配を行っていた。
  • このため、外国勢力が到来したとき、幕府は、外国勢力自体を恐れるのみならず、むしろ、国内の諸藩、被支配階級の人々の離反を恐れた。

第三節 前期的国民主義の諸形態

  • 真の近代的国民主義思想の形成は維新を待たねばならなかったが、それを準備した「前期的」国民主義思潮を見てみる。ラックスマンの来航など海外の勢力の脅威が問題となりはじめ、海防論が論じられるようになった。林子平、古賀精里、本多利明、佐藤信淵などの海防論において、国防を実現するために富国強兵が目指され、その実現のために集権的絶対主義的な国家論が主張された。この思想が、尊王攘夷論に繋がっていく。
  • 尊王攘夷論には、上層武士によるそれと下層武士によるそれがあった。上層武士による尊王攘夷論は、水戸学に代表され体制肯定的であり、尊王敬幕論、公武合体論に結びつく。ペリー来航に至ると吉田松陰に代表される倒幕論に結びつく過激な下層武士による尊王攘夷論が高まる。
  • 国家的独立のための国民的統一には二つの方向があった。政治の集権化という集中化の方向と国民意識の浸透という拡大化の方向である。「前期的」国民主義思潮では、集中化が先行し、拡大化は不徹底に終わった。明治維新では、外国勢力による幕府権力の弱体化による国内的分裂は、庶民から成長した政治力で克服されず、武士と庶民の上層部に担われた。

日本政治思想史研究

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