本居宣長をめぐってー丸山眞男と小林秀雄ー

丸山眞男「日本政治思想史研究」を読んでいる。その感想をツイートしたら、@finalventさんとこんなやりとりになった。

小林秀雄本居宣長」を読んだ時は、結局何を言いたかったのかよくわからない、という印象があった。
これをきっかけにして、丸山眞男小林秀雄を読み比べてみようと思った。
「日本政治思想史研究」には次のように書かれている。

 われわれの叙述は、近世儒教の自己分解の過程を跡づけることに力点をおいたため、国学ごとき複雑な相貌を帯びた思想系列が、圧縮的に主題との関連面からのみ取扱はれ、その結果ある程度まで観察の一面化を招来したことである。そこに自ら多くの問題が充分な展開を見ずして止んだことは、われわれの最も心残りとするところである。ただ近世初期の思想界を殆ど独占した朱子学が、その後の歴史的推移とともに如何に社会的な適合性を喪失して行つたか、その適合性を恢復すべく儒教を「政治化」した徂徠学が、却つて非政治的契機を自らのうちの導入することによつて、如何に国学の擡頭を必然ならしめたか、その過程を通じて近代意識が如何に徐々に芽生へて行つたか、ーかうした経過を思惟様式の微妙な変容のうちに、いくらかでも具体的に読取ることが出来たら、われわれのこのたびの企図は全く無駄ではなかつたと思ふ。(p183)

丸山眞男の目的は、近代意識の発生を跡づけることである。主に、その目的にかなう部分を取り扱い、「ある程度まで観察の一面化を招来した」ことになった。
また、近代的合理主義の成立について、次のように書いている。

近代的合理主義は多かれ少かれ自然科学を地盤とした経験論と相互制約の関係に立つているが、認識思考が専ら経験的=感覚的なものに向ふ前には、形而上学的なものへの志向が一応断たれねばならず、その過程においては、理性的認識の可能とされる範囲が著しく縮小されて、非合理的なものがむしろ優位するのである。……徂徠学や宣長学に於ける「非合理主義」もまさにかうした段階に立つものにほかならぬ。むろん古学派や国学唯名論と同じからぬごとく、朱子学「合理主義」とスコラ的「合理主義」との間には決定的な相違が存する。しかし、後期スコラ哲学がトマス主義に対して持つた思想史的意味と、儒教古学派乃至国学朱子学に対して持つたそれとは看過すべからざる共通性を担つている。(pp185-186)

丸山眞男は、一定の留保はしているものの、結局、ヨーロッパと日本の間の近代思想の成立過程に共通性を見いだしている。「日本政治思想史研究」は、ヨーロッパの思想史をモデルとして、それを江戸時代の思想的変遷に当てはめて分析している。荻生徂徠本居宣長そのものを明らかにすることが目的ではなく、あくまでも日本における近代思想の成立過程を明らかにすることが目的である。
丸山眞男のモデルは明快な構造を持っている。それだけに、彼の叙述も明快で論理的であり、わかりやすいものになっている。
一方、小林秀雄本居宣長」ではどのように本居宣長にアプローチしてようとしているのだろうか、それを読んでみよう。

 ……その思想は、知的に構成されていはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現出来ぬものでもあった。……一般観念に頼る宣長研究者達の眼に映ずるものは彼の思想構造の不備や混乱であって、これは、彼の在世当時も今日も変りはないようだ。……或る時、宣長という独自な生まれつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇が開いたのである。この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上でのきわめて高度な事件であった。……宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う。(pp23-24)

近代思想の成立という進歩史観に基づくモデルを当てはめて構造的に本居宣長を理解しようとした丸山眞男とは反対に、小林秀雄は、本居宣長の思想を歴史のなかで一回だけ起こった「事件」としてとらえ、客観的に構造を導き出すのではなく、宣長の主観によりそって理解しようとしている。それだけに、わかりやすいモデル、図式を提示する丸山眞男に比べると、小林秀雄の文章は理解しにくい。
また、宣長の視点から見た思想に忠実であろうとしているため、彼の思想を現代からの視線で理解しようとすることを批判する。

 ……彼等は、古典を研究する新しい方法を思い附いたのではない。心法を練るとは、古典に対する信を新たにしようとする苦心であった。仁斎は「語孟」を、契沖は「万葉」を、徂徠は「六経」を、真淵は「万葉」を、宣長は「古事記」をという風に、学区門界の豪傑達は、みな己に従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった。この努力に、いわば中身を洞にして了った今日の学問上の客観主義を当てるのは、勝手な誤解である。(pp97-98)

小林秀雄から見れば、荻生徂徠本居宣長の方法が、現代から見れば客観主義、実証主義に似ており、近代的な性格があるように見えるとしても、彼等自身にしてみれば、近代思想とは何の関係もないということになる。
私自身は、丸山眞男の立場、小林秀雄の立場のどちらを取るべきか、よくわからないでいる。確かに、荻生徂徠本居宣長自身は、ヨーロッパの近代思想の展開を意識することはなかっただろう。また、それぞれの社会、文化が同じ段階を経て進歩していくという進歩史観には疑問を感じる。しかし、日本がヨーロッパの近代思想を受容する上で、荻生徂徠本居宣長の思想がその準備をしたという説は説得力があると思う。
これからも、もう少し考えてみようと思う。