民主主義の学校

つれあいが日本経済新聞の夕刊にある最終面のコラムを紹介してくれた。竹内洋が書いている「戦後日本のカリスマ思想4:吉本隆明 下町知識人同時代と伴走」(2011/07/28(木)夕刊18面)である。
私が最近丸山眞男を読んでいて、このコラムのなかでは吉本隆明丸山眞男の比較をしていたので、その感想が聞きたいということだった。比較の部分を引用してみようと思う。

わたしは全共闘世代よりも前の60年安保闘争直後の1961年に大学に入学したが、大学生にとっての教祖は吉本よりも丸山眞男東大教授のほうだった。…全共闘世代になると丸山は教祖の位置から墜落し、吉本がとってかった。…このころになると、丸山眞男などと言い出すとただの権威主義者のようにおもわれた。丸山を否定することが自立思想の持主の証のようにさえなった。…大衆を啓蒙の対象とするような思想を欺瞞的にみる世代が大量に大学進学した。かくて大衆の原像をたえず思想に繰り込むことを提唱した吉本隆明こそが範型になった。

吉本隆明にかぶれた人が、自分の「思想」は吉本からの借り物なのに「自立思想」などというのは噴飯物じゃないか、という皮肉はともなかく、私の世代にとっては、丸山眞男吉本隆明も「リアルタイム」で体験していないので、同時代的な発言をしていた思想家、知識人として考えたことはないし、そういう位置づけもしたこもない。
全共闘世代にとっては、丸山眞男は過去の権威主義者で吉本隆明が自分の世代の代弁者だったのだろうけれど、私にとっては二人とも過去の思想家、知識人という意味では変わりがない(吉本隆明はまだ活動し続けているけれど)。自分にとっては、丸山眞男吉本隆明も、福沢諭吉、さらに言えば、本居宣長荻生徂徠と同じカテゴリーに入っていて、「古い」とか「新しい」という見方をしたことがない。
確かに、丸山眞男は自らを知識人として位置づけており、知識人としての責任を考え、その立場から発言している。それを現代で実行しようとするのは難しいだろうし、権威主義に見えるだろう。しかし、現代から見れば「大衆」という観点を思想に取り入れようという考えには新鮮さは感じないし、むしろ「大衆」という雑駁なカテゴライズには抵抗を感じる。そういう意味では、丸山眞男も古いが、吉本隆明も古い。
結局、現在の自分にとって汲み取るべきものがあれば読むし、なければ読まない、という判断があるだけである。もちろん、彼らの誰かが私の「教祖」であるということはない。
時代的な文脈から切り離して丸山眞男を読むと、私にとっては極めてロジカルな文章が心地よく感じられる。実を言えば、吉本隆明はあまり本格的に読んだことはないけれど、すっきり理解できないところに引っかかってしまう。吉本隆明との比較ではないけれど、「日本政治思想史研究」はすらすらと頭に入ってくるが、小林秀雄の「本居宣長」を読むのは苦戦してしまった(「本居宣長」は良書だけれども)。
丸山眞男の時事的な発言の趣旨を強引にまとめると、理想指向と現実指向のバランスのとれた民主主義を実現すべき、ということに集約されると思う。ある意味、極めて平凡で、常識的な議論をしていると思う。戦後直後から60年安保までの「民主主義」という言葉が輝いていた時代には「教祖」となり、「民主主義」という言葉が輝きを失った時代になって「教祖」の座から転がり落ちたということだろう。しかし、丸山眞男自身は特に「教祖」になりたかった訳でもないと思う。
現在の私から丸山眞男を読むと、彼の平凡で常識的な主張が実現したかというと、正直に言ってそんなことはまったくないように思える。原子力政策に対する民主的な統制は機能していないし、震災、原子力発電所対策も効果的に進められていない。そういう時、自分の視点を確認するために、「平凡で常識的な」見解に立ち戻りたいと思う。今は、さらにさかのぼってトクヴィルの「アメリカン・デモクラシー」を読んでいる。
さて、読み終わった「丸山眞男セレクション」にはいろいろ引用したいところがあるのだけれども、今日は、一つだけ紹介したい。

…デモクラシーの円滑な運転のためには、大衆の政治的な訓練の高さというものが前提になっている。これがあって初めてデモクラシーがよく運転する。しかしながら反面、デモクラシー自身が大衆を訓練していく、ということでもありません。この反面というものを忘れてはならない。つまりデモクラシーが人民の自己訓練の学校だということです。

…つまり現実の大衆を美化するのではなくて、大衆の権利行使、その中でのゆきすぎ、錯誤、混乱、を十分認める。しかしまさにそういう錯誤を通じて大衆が学び成長するプロセスを信じる。そういう過誤自身が大衆を政治的に教育していく意味をもつ。これがつまり、他の政治形態にはないデモクラシーがもつ大きな特色であります。他の政治形態の下においては、民衆が政治的訓練をうけるチャンスがないわけでありますから、民衆が政治的に成熟しないといってなげいても、ではいつになったら成熟するのか、民主的参加のチャンスを与えて政治的成熟を伸していくという以外にない。つまり、民主主義自身が運動でありプロセスであるということ。
(pp384-385)

ここでは「大衆」を学習のプロセスの対象として書かれているけれども、「政治家」ももちろん学習のプロセスの対象である。
しかし、自民党が政権を長期間に独占してきたことで、「大衆」も「政治家」も学習するチャンスを失ってきたと思う。「大衆」が投票やその他の政治活動を通じて理想的かつ現実的に政策に影響を与える経験を得たり、また、政権交代を通じて政権運営のノウハウを持った政党や政治家を失ってきたと思う。
もちろん、安保闘争や環境運動など「大衆」が参加した政治的活動はあったけれど、現実的な果実を得る成功経験が得られなかったり、限定的なものだったりした。当然、自民党に代わりうる政党はなかなか育成されず、また、民主党においても自民党政権運営に関わってきた政治家に依存するところが大きい。
現在の民主党政権も「ゆきすぎ、錯誤、混乱」のただなかにあり、「成長のプロセス」だと信じたい。また、サブガバメントに独占されてきた原子力政策の決定に対しても、民主的統制を取り戻すような「大衆」の政治活動も「成長のプロセス」にあると信じたい。
今となっては手遅れだけれども、日本がもう少し余裕のある時代に試行錯誤による成長のプロセスを経験しておけばよかったと思う。きびしい問題が山積している危機的な状況にある現代において試行錯誤から学ぶというのは少々きびしいと思う。
しかし、きびしくてもやらなければならない。ただ、「大衆」も「政治家」も学習するのだ、ということを強く意識してほしいと思っている。

日本政治思想史研究

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本居宣長〈上〉 (新潮文庫)

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本居宣長〈下〉 (新潮文庫)

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アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)

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アメリカのデモクラシー〈第1巻(下)〉 (岩波文庫)

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丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

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