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「学問のすすめ」のすすめ

年末にAUガラパゴス携帯をiPhoneに買い換えた。
主に使っているのは通勤中だけど、電波が途切れる地下鉄通勤なので十分活用しているとは言えない。
今まで、通勤中はiPod ClassicPodcastを見るか音楽を聴くかしていたけれど、iPhoneになってPodcastの画面が大きくなって見やすくなったところはよかった。
飲みに行く時、飲み会の店までたどり着くには、現在位置もわかるGoogle Mapは便利だと思う。
あと、意外だったのは、豊平文庫というアプリを入れて青空文庫を読むようになったことだ。これまでは、青空文庫はこのウェブログで文章を引用するときに検索できたので重宝していたけれど、PCで本を読む気にはならなかったから、一冊まるごと読むということはほとんんどなかった。しかし、豊平文庫だったら十分読むことができるレベルで表示される。
同じように、以前はKindleを買おうかと迷っていたけれど、iPhoneKindleアプリで十分読めるレベルなので、これでいいかと思っている。
さて、今、豊平文庫で福沢諭吉学問のすすめ」を読んでいる。なかなかおもしろい。
二つの意味でおもしろく思っている。ひとつ、幕末から開化期の思想家としての福沢諭吉の特異性。もうひとつは、文章の勢い、気風のよさである。確かに、明治開化期の若人がこれを読んで気持ちが昂揚する理由がよくわかる。
幕末から開化期にかけての日本の最大の課題は独立の維持である。そのなかで、福沢諭吉の処方箋はかなり独自なものである。
学問のすすめ」のなかで、福沢諭吉は「一身独立して一国独立す」と書いている。少数の支配者階級(江戸時代でいえば武士)が多数の人びとを支配している(農民や町民)を体制だと、支配者階級は自分の国の独立について自らのこととして考えるけれど、被支配者階級は自らのこととして考えないので、国の独立を維持することが難しいという。だから、まず個々人が主体的に自らの主人となり(一身独立)、そのような個人が主体的に集まって国を作る(一国独立)ことが重要だという。
結局、明治の日本は天皇を中心とした国民国家を作り上げ、富国強兵への道を歩む。確かに、この路線は福沢諭吉の「一身独立、一国独立」路線に比べればより現実的なものだったかもしれない。西洋の科学技術を取りれて軍事力を強化することを主張する論者は多かったが、福沢諭吉のように個人の主体性を国の独立の維持のためにもっとも重視するという路線はかなり迂遠にも見える。しかし、天皇中心、富国強兵路線の破綻を知っている現代の目から見ると、福沢諭吉は先見性があったということになるのだろう。
そして、個人が自立するには学問を習得することが必要であり、それゆえの「学問のすすめ」である。その学問も、儒学のように学問のための学問を否定する一方で、深く習得することなく手軽に学習してすぐに実地に適用することも戒めている。本格的な学問をし、そして、それを現実に適用することを学問の意義だという。なかなか耳が痛い話だが、まっとうな指摘である。
また、福沢諭吉の特異性は、その言行一致ぶりにある。個人の自立とそれを実現するための学問の重要性を実現するために、実際に慶應義塾という私立の教育機関を作り上げてしまった。「学問のすすめ」のなかでも、一身独立を体現するために、政府ではなく、民間での活動の重要性を主張しているが、明治時代に実際に政府から距離を置いて事業を実現した人はあまり思いつかない。
「瘠我慢の説」という小文のなかで、旧幕臣明治政府に仕候すること、特に勝海舟榎本武揚を厳しく批判しているが、確かに福沢諭吉は「痩我慢」を実践している。興味深いのは、福沢諭吉は幼少の頃儒学の教育を受け、その上で儒学の非実用性を厳しく批判しているが、この「瘠我慢の説」は「二君に仕えず」という儒学的な思想が色濃い。夏目漱石もそうだけれども、「一身にして二生を生き」た人の複雑性には興味を惹かれる。

学問のすゝめ (岩波文庫)

学問のすゝめ (岩波文庫)

明治十年 丁丑公論・瘠我慢の説 (講談社学術文庫)

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