デカルト「方法序説」を読む
デカルト「方法序説」を読む
読書メーターで去年読んだ本を振り返ってみたら、時事的な読書が多かったことに気がついた。目先の興味関心に流されると、どうしてもそうなってしまう。今年は意識的に古典的な、寿命が長い本を精読しようと思う。
今年の読書の一本の柱として、西洋の政治哲学の基本図書を順番に読んでみようと思っている。デカルト、カントからはじまり、ロールズまでたどり着くことが目標(たどり着けるかな?)。まずは、西洋近代哲学の出発点、デカルト「方法序説」からスタートしてみた。
- 作者: デカルト,Ren´e Descartes,谷川多佳子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1997/07/16
- メディア: 文庫
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デカルトって頭がいい
「方法序説」を読んだ最初の感想は、上から目線でおこがましいけれど、「デカルトって頭がいい」というものだった。
特に根拠はなかったけれど、西洋近代の哲学、思想は、プロテスタントに由来していると思っていた(デカルトからは「ドクサ」だって叱られそうだけど)。しかし、デカルトはカトリック教徒で、スコラ哲学に基づく教育を受けていた。
そのような教育を受けていたにもかかわらず、独力でそこから抜け出す思想を作り上げたということに驚く。そして、煩瑣で複雑なスコラ哲学から、彼自身の思想はじつにシンプルだ。「方法序説」は短いし、デカルトの明晰な頭脳できれいに整理されているから、思いのほか理解しやすい。
このブログの末尾に「方法序説」の要約を付けているので、興味があればそれを読んでみて欲しい。
「方法序説」と革命と社会主義
「方法序説」では、西洋近代の哲学、思想、自然科学のきわめて根底にある方法論、考え方がシンプルに示されている。これを基準にして考えると、ああ、これはデカルト的な方法だな、これは非デカルト的なところが画期的なのか、といったことが理解できる。
例えば「革命」という考え方。これはきわめてデカルト的だ。デカルトは理性はすべての人に等しく与えられており、慣習によらず自らの理性を求めて真理を追求すべしと言っている。この方法を社会にあてはめれば「革命」になる。
「神々の見えざる手」によって調整される「市場」を重視する考え方は、非デカルト的だろう。デカルトが経済学を構想すれば、需要と供給とそれに対応する価格は原理的には計算しうるし、「市場」に委ねるよりは計算した方がよいと考えただろう。すなわち、社会主義はデカルト的だ。
一方、伝統や市場といった集合知の働きを重視するアダム・スミス、エドマンド・バーク、フリードリヒ・ハイエクといった人たちは非デカルト的である。
「方法序説」とロジカル・シンキング
第二部に書かれている、真理を求めるための四つの教則は、コンサルティング業界のひとつの教科書になっているバーバラ・ミントのロジカル・シンキング、MECE(mutually exclusive and collectively exhaustive:ダブりなくモレなく)そのものである。おそらく、バーバラ・ミントがロジカル・シンキングを考えるときに、デカルトを基礎に置いていたのだろう。
「方法序説」に示された原則はシンプルで根底的だ。それゆえ、射程が長く、応用範囲がきわめて広い。
「方法序説」と機械学習
「方法序説」を踏まえて考えると、機械学習がなぜ画期的なのかがよくわかる。
これまでの科学技術は、ロジカル・シンキングも含め、主としてデカルト的な方法に基づいている。だから、科学技術で難問とされている問題は、デカルト的な方法が万能ではないことを示しているし、非デカルト的な方法を開発することができればそのような難問を解決できるかもしれない。
機械学習は、きわめて非デカルト的な方法である。例えば、顔の画像認識をデカルト的な方法でアプローチするならば、顔をそれぞれのパーツに分割し、それぞれのパーツの特徴を表現できる変数を設定し、それらを合成して顔の特徴を示すモデルを導き出すというロジカルな順序で研究を進めるはずだ(おそらく、そのような方法で顔の画像認識をしようと試みた研究は多数あるだろう)。
しかし、機械学習では、膨大な顔の画像を学習させ、いわば膨大な試行錯誤をして、結果的に顔を判別できるモデルを導き出す。なぜそのモデルが顔をうまく判別できるのかは、ロジカルな説明はできない。あくまでも結果的に判別できる可能性が高いモデルが得られた、ということだ。
また、機械が「知能」を持っているか判定する基準のひとつに、人間らしい応答ができるかどうかを調べる「チューリング・テスト」というものがある。これも、デカルトの考える知性の基準(第五部参照)に基づいていることに気がついた。
それにしても、西洋近代哲学の出発点であり、解析幾何学の開祖であるデカルトは、自らの思想の基礎に数学を置くと宣言している。日本の大学では、「哲学科」は文系の文学部に置かれていることが多いが、文系と理系の分類が意味がないことは歴然としている。
デカルト「方法序説」要旨
第一部
- 真実と虚偽を見わけて正しく判断する力、良識、理性は、すべての人に生まれながら平等に与えられている。
- これまでの哲学(スコラ哲学)は議論が尽きることなく、その堅実性に乏しい哲学の原理を基礎としてその他の学問を築くことはできない。
- それゆえ、学校を卒業した以後、書物による学問を放棄し、世間という大きな書物のうちに見いだされる学問を求め、真偽を識別することを学ぼうとした。
- しかし、さまざまな実例や慣習も多様なものであり、硬く信じすぎてはならないと悟った。
- そして、理性をくもらせる迷妄から少しずつ抜け出し、自分自身で本気で考えようと思うに至った。
第二部
- 多様なな人たちによって組み立てらた学問に比べ、良識ある一個人が理性に基いて進める単純な推論の方が真理に近づける。
- わたしたちを説得するものは、確実な認識より、多数の声に基づく慣習と実例である。しかし、それらは真理に対する証明にはなっていない。そこで、私は、やむをえず自分自身が考えた基礎の上に、自分の思想を構築することにした。
- しかし、特に、自分を実際よりも有能であると信じ急いで判断をくださずにいられない人、すぐれた意見を自ら探求するよりは有能な人の意見に従うことに満足すべき人には、この道は勧められない。
- 幾何学者が証明をするときのように、必要な順序を守り演繹をすることで、最後まで到達できないものはない。確実に直証的な根拠を見出したのは数学者だけであり、これを基礎にすべきである。
- 真理を求めるために守るべき教則は以下の四つである。(1)速断と偏見を避け、明証的に真であると認められるまでは判断に取り入れない。(2)研究しようとする問題をできうる限り細かな多くの部分に分割する。(3)思索を単純なものから複雑なものへ一定の順序に基づき進める。(4)完全な枚挙ができ見落としがなかったか常に再検査する。
第三部
- 真理に至るまでの間、暫定的に以下の三つの行動準則に従って生活する。
- (1)自らの行動を、最も聡明と思われる人たちの行動と一致させる。極端な意見は避け、最も穏健な意見を選ぶ。極端な意見は悪いことが普通であり、穏健な意見がおそらくは最良のものであろう。
- (2)可能な限り志を固くして迷わぬこと。ひとたびみずから決定した意見に対しては、どこまでも忠実に従うこと。その意見に決着させた理性は、善いもの、真なるもの、確実なものであるから。
- (3)運命より自分に打ち勝つこと、また、世界の秩序よりは自分の欲望を変えるよう努めること。自分が権力を持っているものは自らの思想のみであり、その他のものについては最善を尽くしても成功するとは限らないから。
第四部
- 真理の探求において、いささでも疑わしいところがあるものはすべて絶対的に虚偽のもとして退けた結果、疑うべからざるもののみが確信に残る。
- 感覚は人間を欺くことが多く、夢に見る幻影を等しく一切を虚偽であると考えた。しかし、そのように考える「私」は必然的に何者かでなければならない。そして「私は考える、それゆえに私はある」という真理がきわめて堅固、確実であると判断した。
- 私が疑いを持つのは、私自身が不完全であるからである。私自身が不完全であるということを知っているのは、完全なものがあって、それから知ったからだ。それゆえ、完全なもの、すなわち神は存在する。
第五部
- 第一真理(「私は考える、それゆえに私はある」)から、光、太陽・恒星、遊星・彗星、地球、動物、人間に関する真理を演繹した。
- 神は、世界を混沌の形に創造し、自然界の法則を設け、その法則に従って世界が現在の姿になったと考えたほうが、世界について理解しやすい。
- 人間の身体は、ひとつの機械として見ることができ、動物の身体と共通している。理性のある精神は、機械としての身体とは独立しており、人間に特有のものである。理性の精神の有無は、言語を用いて語られる意味に対して応答することができるか、によって判別できる。これは、機械にはできない。
第6部
- 三年前に、これらのすべてを内容とする論文を書きおわり、出版しようと考えていたが、ある人(ガリレオ・ガリレイ)が公表した自然学上の新説が禁圧されたと聞き、論文を公表する決意を翻した。
- さらに真理を明らかにするためには多くの実験が必要だが、論文を公表することによる反論などに対応することに時間を割くよりは、自ら実験を進める方がよい。
- 一部の試論について公表したのは、自分の行動について罪悪でもあるかのように隠蔽していると誤解を解くためである。