上滑りの開化

しばらく前、会社の人たちと飲みに行った。そのとき、隣合わせになった私とほぼ同世代の人が、自分は大学時代哲学科にいたんですよ、と言った。私自身は文化人類学科の出身だけれども、私の会社では彼も私も変わり種だと思う。バブルの時代の大学生活の思い出話になり、ニューアカとか流行って構造主義とかポスト構造主義の本をよくわからず読んでいたよね、と話しながら盛り上がった。
その頃、構造主義やポスト構造主義の本が理解できなかったのは、自分の学力不足や彼らの本の難解さもあるけれど、そもそもなぜ構造主義やポスト構造主義といった主張がなされなければならなかったのか、その背景、目的を理解していなかったことが大きな原因だったと思う。
ものすごく大雑把に言えば、ヨーロッパでは、デカルト、カント、ヘーゲルという理性を中心に置いた近代哲学が巨大な存在としてあり、それへのアンチテーゼとして構造主義やポスト構造主義は書かれている。大学時代の私は浅はかにも、彼らが批判の対象とした大本の近代哲学を読まずして、構造主義やポスト構造主義を読んでいたからわからなくて当然だった。
レヴィ=ストロースが「悲しき熱帯」のなかで、フロイトマルクスにシンパシーを持っているということを書いている。彼の構造主義だけを取り出してみれば、フロイトマルクスへの批判になっているので、なぜ、シンパシーを感じることができるか不思議に思う。しかし、カメラのズームを引いてみれば、ヨーロッパの近代哲学への批判者という意味では、フロイトマルクスレヴィ=ストロースは共通している。そういう文脈を理解した上で、さらに言えば、近代哲学が身体に染みこんで、それから抜け出すことに苦労するという体験なしには、彼らの主張の本当のところはわからないのだと思う。
夏目漱石は、このような日本の状況を「現代日本の開化」という講演で、じつにユーモラスだけれども的を射た言葉で語っている。

それで現代の日本の開化は前に述べた一般の開化とどこが違うかと云うのが問題です。もし一言にしてこの問題を決しようとするならば私はこう断じたい、西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。ここに内発的と云うのは内から自然に出て発展するという意味でちょうど花が開くようにおのずから蕾が破れて花弁が外に向うのを云い、また外発的とは外からおっかぶさった他の力でやむをえず一種の形式を取るのを指したつもりなのです。

これを一言にして云えば現代日本の開化は皮相上滑りの開化であると云う事に帰着するのである。無論一から十まで何から何までとは言わない。複雑な問題に対してそう過激の言葉は慎まなければ悪いが我々の開化の一部分、あるいは大部分はいくら己惚れてみても上滑りと評するより致し方がない。しかしそれが悪いからお止しなさいと云うのではない。事実やむをえない、涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならないと云うのです。

すでに開化と云うものがいかに進歩しても、案外その開化の賜として吾々の受くる安心の度は微弱なもので、競争その他からいらいらしなければならない心配を勘定に入れると、吾人の幸福は野蛮時代とそう変りはなさそうである事は前御話しした通りである上に、今言った現代日本が置かれたる特殊の状況に因って吾々の開化が機械的に変化を余儀なくされるためにただ上皮を滑って行き、また滑るまいと思って踏張るために神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒と言わんか憐れと言わんか、誠に言語道断の窮状に陥ったものであります。私の結論はそれだけに過ぎない。ああなさいとか、こうしなければならぬとか云うのではない。どうすることもできない、実に困ったと嘆息するだけで極めて悲観的の結論であります。こんな結論にはかえって到着しない方が幸であったのでしょう。真と云うものは、知らないうちは知りたいけれども、知ってからはかえってアア知らない方がよかったと思う事が時々あります。

私の構造主義、ポスト構造主義の体験は、まさしく上滑りだったけれど、明治以降現代に至るまで、結局日本の近代は「涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならない」ということに終始しており、また、今でも上滑っているのだと思う。
3.11をきっかけに日本の原子力行政を見ながら、日本の民主主義は形式だけ整えているけれど、結局のところ内実がまったく整っておらず、漱石風に言えば「上滑っている」と深く思うようになってきた。
現代の政治状況だけを見ていても「上滑ってしまう」と思い、今さらながらトクヴィルの「アメリカのデモクラシー」を読んでいる。これが実におもしろい。トクヴィルはフランスの政治学者で、19世紀中頃のアメリカの民主主義の状況について書いているけれど、現在のアメリカの政治や国民が抱いている基本的な理念について非常によく理解できる。このような経緯でアメリカの民主主義は成立しており、それに比較すると日本の「民主主義」はなるほど「上滑っている」ということがよくわかる。
もちろん、西洋の民主主義が完璧で優れているとは断言できないし、トクヴィル自身もフランス革命以後のフランスの民主主義の現状を憂いてアメリカの民主主義のあり様を研究している。日本の場合、日本なりの政治のあり方を確立することができればすばらしいことだけれども、それとはほど遠い現状にあって、魅力的な提案もない。だから「事実やむをえない、涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならない」ことになる。
「アメリカのデモクラシー」のなかに、王政を打倒した後の虚脱感に陥ったフランスの民主主義のあり様についてトクヴィルが批判的に書いている部分がある。これが実に現在の日本の「涙を飲んで上滑りに滑って行く」状況に通じるところがある。

 貧しい者は父の世代の偏見を多くをなお有しているが、その信仰はもはやない。無知に変わりはないが、かつての徳義心はない。行動の規準として利益の説を認めるが、その何たるかを弁えず、その利己主義はかつての彼らの献身が盲目的であったと同様に解明されていない。
 社会は静かである。しかしそれは、社会が力と安定に自信をもっているからでは決してなく、自己の弱さと欠陥を意識しているからである。何かを試みて死んでしまいはしないかと恐れるのだ。誰もが欠陥に気づいているが、勇気を持って改善に乗り出すだけの力をもつ者はいない。欲望も後悔も苦しみも喜びもあるが、それらの感情は何一つ目に見える成果をあげず、老人の情熱にも似て、何の力にもならない。
このようにわれわれは、過去の状態の利点を捨てながら、現在の状況がもたらすはずの有用なものを得ていない。われわれは貴族社会を破壊した。しかし、往時の廃墟に足を止めて悦に入り、そのままいつまでもそこにいたいかのようである。
(第一部上p24)

漱石は、日本の開化の上滑りについて「アア知らない方がよかったと思う事が時々あります」ときわめてシニカルに語っている。私も今の日本を見ていると、また、同じようにシニカルに語りたくなってしまう。
日本は、漱石の言うように結局のところ「涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならない」のかもしれないけれど、せめて自分はきちんとした軸を持っていたいと思う。

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

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悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)

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漱石文明論集 (岩波文庫)

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アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)

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アメリカのデモクラシー〈第1巻(下)〉 (岩波文庫)

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