De la Democratie en Japon(日本のデモクラシー)(4)民主制の実現と定着

トクヴィル「アメリカのデモクラシー」を素材にしてアメリカと日本の民主制について書いてきた。

これまでも書いてきたけれど、トクヴィルの民主制に対する洞察力については驚かされることが多い。現代では、民主制に反対することは難しいから、民主制を他の体制と相対化して客観的に批判することはできないけれど、トクヴィルはそれが可能な立場にいたことが大きな理由の一つだと思う(もちろん、トクヴィル自身の能力の高さもあるけれど)。今回は、そのトクヴィルのすぐれた洞察について紹介したいと思う。少々長くなるが、引用したい。

 ヨーロッパでは、口には出さぬとしても、多くの人が普通選挙の大きな利点の一つは、公衆の信頼に値する人物を国家の指導者に任ずる点にあると信じている。信じていないのに口ではそう言う人も多い。人民は自分では統治しえないが、国家の利益を本気で欲しており、同じ思いによって動かされ、しかも権力の手綱を取るのにもっとも有能な人物を本能によって必ず知ると言うのである。
 私としては、アメリカで見た限り、そのように考えることはできないと言わなければならぬ。合衆国に着くとすぐに、私は被治者の中にすぐれた人はいくらでもいるのに、為政者の側にはそれがどれほど少ないかに驚いたものである。今日、合衆国では、最上の人物が公職に呼び出されることは滅多にない。これは確かな事実であり、しかもデモクラシーがかつてのあらゆる限界を超えるにつれて一層そうなってきたと認めねばならない。アメリカの政治家の質が、この半世紀、著しく低下したことは明らかである。
 この現象にはいくつかの原因を示しうる。
 民衆の知識をある一定の水準以上に引き上げることは、いずれにせよ不可能である。人知を分かりやすくし、教育方法を改善し、学問を安価に学べるようにしたところで無駄である。時間をかけずに学問を修め、知性を磨くというわけには決していかない。
 つまり働かずに生きていける余裕がどれだけあるか、この点が民衆の知的進歩の超えがたい限界をなしているのである。この限界はある種の国では遠く、別の国では近い。しかし限界がまったくなくなるためには、生きるための物質的配慮から民衆が完全に解放されねばならず、それはつまり民衆でなくなるということにほかならない。…社会の下層階級は上層階級に比べて個人的利害を絡めることが少ないとも言おう。だが彼らにおいて程度の差はあれつねに欠陥となるのは、真摯に目的を欲しながら手段の判断が拙劣な点である。
(第一巻(下)pp53-54)

普通選挙が現実的に最適な人物を選んでいないということは明らかである。
それに対して、トクヴィルは有閑階級、貴族の存在の重要性を指摘しているが、これはいかにも大陸ヨーロッパ的な合理論だなと思う。私自身はアングロサクソン的な経験論に基づくハイエクに共感しているから、普通選挙が最適な人物を選べないという事実は認めるけれども、だからといって有閑階級、貴族による判断が最適な人物を選ぶことができるとは思えない。相対的に比較すれば、民主制の方がより望ましい結果が得られると考えている。
なお、ハイエクについては、以下のツイートを参照のこと。

さらに、トクヴィルは民主制の危険性について次のように指摘している。

 役人の行為に大幅な裁量の余地がある政府に二種類ある。一人の支配者の絶対的政府でも民主主義の政府でもそうなるからである。

 民主政体では、多数者は権力をいったん委ねた役人の手から、年ごとにこれを取り上げることができるから、彼らが多数の意志に反して権力を濫用する心配を同様に持たない。為政者に自分の意志を刻々知らせうるので、不動の規則でこれを縛るよりもその自由な努力に任せる方を好む。規則は為政者を制約すると同時に、多数者自身をもある程度制約するかもしれないからである。
 仔細に検討してみると、民主主義の下では、役人の裁量は専制国家におけるより大きいはずだということさえ分かる。

 民主的共和制におけるほど法律が役人に大きな裁量権を認めたことはないが、それはここでは役人の裁量が少しも恐るべきものと考えられていないからなのである。選挙権が下に及べば及ぶほど、また役人の任期が限定されればされるほど、ここでは役人の自由は拡大するとさえ言ってよい。
 民主的共和制を君主政体に移行させるのが極めて難しいのはこのためである。役人は選挙制でなくなっても、通常、選挙されていたときの権限を保ち、その慣行を続ける。こうなると専制政体になるのである。
(第一巻(下)pp68-71)

トクヴィルの時代にはファシズムは現れていなかったが、フランス革命のなかからジャコバン派は生まれていた。そこからの洞察かもしれない。しかし、ファシズムの母体が民主政体であることをするどく予測している。
日本の戦後の政府は、官僚中心であるとよく言われる。また、民主党は官僚から権力を奪い、政治主導を実現しようと主張する。確かに、官僚は政治家から情報を隠すことによって政治家に抵抗しようとしていることは間違いないが、戦後の日本国憲法では、官僚の権限の源は国会で選ばれた内閣総理大臣にある。法律、予算も原案は官僚が作成し、国会で必ずしも十分な議論が行われないまま可決されるという議論もあるが、しかし、いくら原案を官僚が作ると言っても国会で否決されてしまえば官僚の意志は実現しない。そのため、官僚は与党からの賛成が得られるように事前に法案、予算案の作成過程で根回しをしている。その意味で、官僚が主体的に政策を立案しているというより、政治家と官僚の合作であることは間違いない。55年体制自民党が政権を独占していた時、ファシズム、専制政体とまでは言えないかもしれないけれど、強力な権限を独占していたことは間違いない。政権交代が可能な政党が存在しなかったということは、戦前の天皇制におけるファシズムの時代と比べても、限りなく専制政体に近かったと言えるかも知れない。
私自身は民主党支持者ではないけれど、現実的に政権交代可能であるという状態が民主制に不可欠だと思う。その意味では、野田内閣がその政策の是非はともかくも、まともに政権運営できる能力を示すことは重要だと思う。ここで、民主党への本格的な失望感が高まると、戦前の近衛内閣以降の状態や55年体制への後戻りをすることになるかもしれないことを危惧している。
トクヴィルは、民主制の問題点を指摘しつつも、最終的には王政、貴族制に比較して民主制が優れているという。

 ヨーロッパの集権論者は、地方を自治に任せるより、政府権力が直接治める方が行政がうまくいくと主張する。中央権力が開明的で、地方は無知のとき、前者が積極的で行動を慣いとし、後者は無気力で服従を慣いとするときならば、その主張は正しいであろう。集権が増すにつれて、この二重の傾向もまた増大し、一方の有能と他方の無能がますます著しくなるとさえ考えられる。
 けれどもアメリカにおけるように、人民の知識が開け、自らの利害に目覚め、これを絶えず意識しているときには、そうではないと思う。
 それどころか、私はこのような場合には、市民の集団的な力の方が政府の権威より社会の福利をもたらす能力がつねに高いと確信している。

 中央権力というものは、どんなに開明的で賢明に思われようとも、それだけで大きな国の人民の生活をあらゆる細部まで配慮しうるものではない。そのような努力は人間の力を超えているから不可能なのである。中央権力が、国民生活の細部に至るほど複雑多岐な機構を独力でつくり運営しようとしても、きわめて不完全な結果に甘んじるか、無益な努力のうちに疲れはててしまうかどちらかである。

 持続的な注意と厳密正確な扱いがないと成功しない有益な事業が、時として放置されてしまうことがある。それというのも、他の国同様アメリカでも、民衆は一時の勢い、突然の衝動で動くからである。
…アメリカ人が国家を治める力はヨーロッパに比べてはるかに統制を欠き、開明度が低く、賢くもないが、百倍も大きい。最終的には、この国ほど人々が社会の福利を生むために多くの努力をなす国はどこにもない。これほど数多くまた効率的な学校を建てるのに成功した国民を私は他に知らない。住民の必要にこれ以上見合った教会堂を造り、これ以上によく整備された公道を建設しえた国民も知らない。アメリカに画一的、恒常的な光景、細部の綿密な注意、行政過程の完璧を求めてはならない。そこに見出されるのは、たしかにいささか野蛮ではあるが、活力のみなぎる力のイメージであり、偶然を伴いはするが、また運動と活力に満ちた生活の姿である。
(第1巻(上)pp143-146)

ここでトクヴィルが直接的に述べているのは集権と分権の対比であるが、民主制の利点にも通じると思う。必ずしも最適な人が選ばれる保証はなく、行政も賢明さ、継続性、綿密さを欠けるけれども、住民、国民の活力を引き出すことができる。逆に言えば、住民、国民にそのような意志、性向が欠けていると民主制や分権が必ずしも成功しないということも言えるのだろう。
トクヴィルはアメリカ大陸の諸国を比較し、民主制が機能しているのがアメリカ合衆国のみであり、その背景には「習俗」があることを指摘している。

…ほとんどすべてのアメリカ植民地は、相互に平等な人々、あるいはアメリカに住むことで平等になった人々で建設された。新世界の片隅たりとも、ヨーロッパ人が貴族制を創設しええたところはない。
 にもかかわらず、民主的諸制度は合衆国にしか繁栄していない。

 アメリカに住むすべての人々の中で独り合衆国のアメリカ人だけが民主主義の支配を支えることができるが、その力を彼らに授けるのは、だから何をおいても習俗である。また、イギリス系アメリカ人の民主主義も種々あって、規律と繁栄の程度がそれぞれ異なるのも習俗のためである。

 人民を統治に参加させるのは難しい。人民に経験を積ませ、人民に欠けているよき統治に必要な感覚を身につけさせるのは、よりいっそう難しい。
 デモクラシーの意志は変わりやすく、担い手は粗野で法律は不完全である。それは認めよう。だが、もし、デモクラシーの支配と一人の人間の重圧との間に中間の道はないということに、いずれならざるをえないとすれば、わざわざ後者に服するよりは前者に向かうべく努めるべきではなかろうか。そして、最後には完全な平等に到達するのが必然だとすれば、専制君主の手で平準化されるよりは、自由によってそうなる方がましではないか。

…私は、アメリカのデモクラシーが示した例にわれわれも倣うべきであり、目標達成にそれが用いた手段を真似するべきだと信ずるものでは決してない。なぜなら、私は、その国の自然と歴史的与件が政治の諸制度に及ぼした影響を知っており、また、自由がどんなところでも同じ形で再生産されねばならぬとすれば、それは人類にとって大きな不幸だと考えるものだからである。
(第1巻(下)pp244-pp263)

アメリカ人は「アメリカのデモクラシー」を普遍的なものだと信じているために、それを世界に普及することを使命と考え、世界各所で失敗している。まさに、トクヴィルが予見しているとおりである。
一方で、専制に比較すれば不完全なものであっても民主制の方が好ましいと私も考えている。だとすれば、今の日本において、その自然、歴史的与件を踏まえ、人民を政治に参加させる民主制の確立が不可欠である。
繰り返し書いているけれど、現在の日本の民主制は、実質としての民主制にほど遠いと思っている。私は民主党を支持していないけれど、民主党による政権交代は民主制の確立に向けた契機になると思っているし、また、311の経験、特に、エネルギー政策に民主的な統制ができなかったことを考えれば、日本としての民主制のあり方を確立することが求められている。
民主党政権運営の拙さのあまり、国民が民主制への信頼を失ってしまうことが危険だと思う。新しい野田政権には、信頼を回復するための地道な政権運営を期待する。
そして、その一方で、深い意味での日本の民主制のあり様に対する深い考察、議論を望みたい。

アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)

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アメリカのデモクラシー〈第1巻(下)〉 (岩波文庫)

アメリカのデモクラシー〈第1巻(下)〉 (岩波文庫)