ジェニーの物語

稲本がウェブログ(id:yinamoto:20050219)で、先週現代語訳をした今昔物語集「讃岐の国の多度郡の五位が法話を聞いて直ちに出家した話」について言及してくれたおかげで、そちらの方面からのお客さんが増えたようだ。この現代語訳もいつものごとくあまり校正せずにアップロードしてしまったけれど、読んでくれる人が増えたようなので、少々手を入れた。
その稲本のウェブログ(id:yinamoto:20050219)のコメントに、この話の多度の五位と「フォレスト・ガンプ」のフォレストが似ていると思うという感想を書いた。「フォレスト・ガンプ」という映画は大好きで、DVDを買い、たまに見返している。昨日、地上波のテレビで「フォレスト・ガンプ」をやっていた。DVDを持っているのだから、わざわざテレビの放送で見る必要もないのだけれど、ついつい見入ってしまった。
私は、(いまや世界的にとっても肩身の狭い)アメリカ好きなので、「フォレスト・ガンプ」のなかにでてくるアメリカ文化に絡めたパロディを探すのが単純に楽しい。今回は、足がないルテナント・ダンが、嵐の中でエビ取り船のマストの上で叫んでいるシーンは、「モビー・ディック」のパロディだったことに気がついてうれしかった。他にも、未発見の細かいパロディがありそうだ。
しかし、それだけの理由でこの映画を見ているわけではない。つれあいによると、私は「フォレスト・ガンプ」を見るたびに「ジェニーはたいへんそうだなぁ」と言っているようだ。たしかに、ジェニーほどに、映画や小説の女性の登場人物に感情移入することは珍しいと思う。
もともと、ヒッピーや学生運動をしていた人たちはあまり好きではない。彼らが社会に反発し反抗したいと思う理由はわかるけれども、彼ら自身は傲慢で感情移入できないことが多い。今回のアメリカの大統領選挙で反ブッシュの運動をしていた人たちの多くは、ブッシュを支持する素朴なキリスト教徒たちをバカ同然の狂信者だと言わんばかりだった。ブッシュを支持する人も、反対する人もそれぞれに理由があるはずだけれども、そのことに思いを致さず一方的に見下す傲慢さは、非常に感じが悪いと思った。それと同じような雰囲気を彼らに感じるのである。
例えば、「イージー・ライダー」では、ただ、ヒッピーたちと南部の社会の断絶が強調されている。キャプテン・アメリカやビリーを排除する南部の男に共感できないけれど、キャプテン・アメリカやビリーも、南部の社会を理解しようとせず、敵対する。しかし、なぜ、彼らが敵対しなければならないのか、というところがしっくりとこないのである。キャプテン・アメリカだって、ビリーだって、ヒッピーになる前の人生があり、ヒッピーに成る理由があり、ヒッピーになってからもそれ以前の人生を完全に切り離すことなどできないだろうと思う。そうであれば、完全な断絶などはあり得ないのではないかと。
フォレスト・ガンプ」では、ジェニーとフォレストがコインの両面のように、あらゆる意味で対照的でありながらも決して切り離せないつながりを持っている。それは、キャプテン・アメリカと南部の社会が決定的に断絶しているのと違い、ジェニーとフォレスト、ヒッピーと伝統的な社会が、困難で複雑な関係でありながらも断絶しているわけではないことを示しているのだと思う。
幼い頃に決定的に傷つけられてしまったジェニーは、田舎に住み続けることはできない。1960年代に、何も持たずに田舎から都市に移り住んだ彼女は、流されるままヒッピーとして自分を傷つけるような生活を続ける。ヒッピーとしての暮らしが幸福なわけではないけれど、アメリカの田舎の素朴な価値観を代表するフォレストとは、一緒に暮らし続けることはできない。
ジェニーと田舎のつながりは切りようがない。それは、彼女を苦しめ、また、癒す。彼女を苦しめる側面を彼女の生家が象徴し、彼女を癒す側面をフォレストが象徴する。ジェニーには傲慢なところはない。自分の運命に翻弄される苦しみややるせなさが痛いほどに伝わってくる。
ジェニーのことを考えていると、「ティファニーで朝食を」のホリーを思い出す。ホリーもジェニーと同じに、田舎から何も持たずに都市にでてきた女性である。時代が違うからホリーはヒッピーにならず、ニューヨークで娼婦として暮らしている。たまたま時代がちがっていただけで、ジェニーとホリーの境遇はよく似ている。もし、「ティファニーで朝食を」の後日談があれば、もう一つのジェニーの物語、もう一つの「フォレスト・ガンプ」になったのかもしれない。

妻の肖像画

ひさしぶりにジェイムス・ジョイス「ダブリンの市民」(結城英雄訳、岩波文庫)(isbn:4003225511)を読み返した。「ダブリンの市民」の最後におかれた「死者たち」という中編に、印象的な場面があったので、原文から翻訳をしてみた。

ゲイブリエルは、ほかの人たちといっしょに玄関のドアのところまで見送りには行かず、ひとり玄関ホールの暗がりから階段の上の方を見つめていた。踊り場の少し下の暗がりに一人の女性が立っていた。彼女の顔は見えなかったが、スカートに影が差し、テラコッタ色とサーモンピンク色のパネルが黒と白に見えた。彼の妻だった。彼女は手すりにもたれ、何かをじっと聴いていた。ゲイブリエルは彼女が身じろぎもしないことに気づき、耳を澄ましてみた。しかし、玄関先の笑い声と口論の他には、ピアノの伴奏の和音と男が歌声がかすかに聞こえただけだった。
彼は玄関ホールの暗がりにじっと立ち、妻を見つめながらその歌声のメロディを聴きわけようしていた。彼女の姿は何かを象徴しているかのように優雅で神秘的だった。階段の暗がりに立ち、遠くで鳴っている音楽に聴き入っているあの女性は何を象徴しているのだろう、と考えた。もし画家だったら、あの姿の彼女のことを描くだろう。暗闇を背景にすれば、ブルーのフェルトの帽子は、彼女のブロンズの髪を引き立てるし、スカートの暗い色のパネルと明るい色のパネルはいい対比になるだろう。自分が画家なら、その絵には「遠い音楽」という題をつけよう。

ゲイブリエルは、オールドミスの叔母たちが主催する恒例のダンスパーティに出席している。そのさなか、ふと見た妻の姿の美しさに感動する。
もちろん、ジョイスの小説だから、単純に夫が妻を愛でるというような一筋縄な話では収まらない。このあと、ゲイブリエルは、この瞬間に妻は死んだかつての恋人のことを考えていたということを聞き、大いに失望する。しかし、ゲイブリエルが失望しようとしまいと、この場面と妻の姿は美しい。
いつかは「死者たち」の全訳をしたいと思う。