うなぎ

おとといの日記([id:yagian:20040830])で書いたように、村上春樹アフターダーク」(講談社)(ISBN:4062125366)を予約した。そのための心の準備体操のために、柴田元幸「ナイン・インタビューズ柴田元幸と9人の作家たち」(アルク)(ISBN:4757407815)のなかの柴田元幸村上春樹の対談を読んだ。
この対談のなかで、村上春樹はこんな事を語っている。

村上 ・・・僕は「うなぎ説」というのも持っているんです。僕という書き手がいて、読者がいますね。どもその二人でだけじゃ、小説というものは成立しないですよ。そこにはうなぎが必要なんですよ。うなぎなるもの。
柴田 はあ。
村上 いや、べつにうなぎじゃなくてもいいんだけどね(笑)。たまたま僕の場合、うなぎなんです。何でもいいんだけど、うなぎが好きだから。だから僕は、自分と読者との関係にうまくうなぎを呼び込んできて、僕とうなぎが読者で、3人で膝をつき合わせて、いろいろと話し合うわけなんですよ。そうすると、小説というものがうまく立ち上がってくるんです。
柴田 それはあれですか、自分のことを書くのは大変だから、コロッケについて思うことを書きなさいというのと同じですか。
・・・

村上 ・・・例えば柴田さんがここにあるコロッケについて原稿用紙10枚書くとする。柴田さんはただコロッケについて書いているわけであって、柴田さん自身について語っているわけじゃないんだけども、そのコロッケについての文章を読めば、柴田さんの人柄というか、世界を見る視点みたいなものが、僕にもある程度わかるわけじゃないですか。
柴田 ええ、願わくば。
村上 でも柴田さんが僕に向かって直接、柴田元幸とは何か、いかなる人間存在か、というような説明をはじめると、逆に柴田元幸を理解することは難しくなるかもしれない。むしろコロッケについて語ってくれた方が、僕としてはうまく柴田元幸を理解できるかもしれない。それが僕の言う物語の有効性なんです。

これを読んで、森鴎外渋江抽斎」(岩波文庫)(ISBN:4003100581)のことが頭に浮かんだ。
自然主義の作家の私小説は、まさに「柴田さんが僕に向かって直接、柴田元幸とは何か、いかなる人間存在か、というような説明」しようとする。しかし、自分のことを直接説明しようとすると、必ず作為が入り、臭みを帯びてしまう。かんたんに言えば、いい格好しいをせずに、自分のことを語るのは難しいということだ。その臭みには、へきえきさせらる。
鴎外の「ヰタ・セクスアリス」(新潮文庫)(ISBN:4101020035)は、私小説的な小説である。自然主義私小説とは違った意味で、取り澄ました鴎外のポーズが感じられ、鴎外の人となりがストレートには伝わってこない印象がある。
渋江抽斎」では、江戸時代末期の無名の医者、書誌学者について、詳細に、かつ、作為を交えずに淡々と語られる。そのような、無名で、歴史的な重要性もなく、読者のだれも知らないような人物について、なぜ、鴎外が語るのかは説明しない。しかし、「渋江抽斎」を読み通すと、鴎外が渋江抽斎に寄せる情熱が理解できる。そして、それを通じて、鴎外自身の人となりにも触れることができるように思える。自分自身について直接的に語った「ヰタ・セクスアリス」よりも、無名の人について語った「渋江抽斎」の方が、鴎外についてもよりよく理解できる。
鴎外にとって、渋江抽斎は、村上春樹のいう「うなぎ」として機能しているということだろう。鴎外は、この「渋江抽斎」の後、無名人に関する史伝を書き続けるが、彼にとっての「うなぎ」をしっかりと捕まえることができたということだろう。
しかし、私小説も考えてみれば、自分自身を「うなぎ」に見立てた物語ともいえるのではないか。古典的な自然主義の解釈では、なるべく作為なく、真実を告白することが重要だとされていたが、実際には、自分自身について書こうとすると、必ず、ある種の作為がはいる(高浜虚子は、例外的にほとんど作為なく私小説を書くことができた作家だと思うが、そのことはまたいずれ書きたい)。
その作為のあり方から、自分を観察し、表現する時のレンズの歪み方から、その作者のことを理解することができるのではないか。そのように考えると、自然主義私小説も、「ヰタ・セクスアリス」も、おもしろく読めるように思う。
田山花袋「蒲団」(「蒲団・一兵卒」(岩波文庫)所収)(ISBN:4003102118)は、普通に読むと、臭みに耐えきれず、うんざりする。しかし、臭みから窺われる田山花袋の人となりには、興味が湧いてくるのである。