「僕」と「君」

昨日([id:yagian:20040901])に引き続き、村上春樹アフターダーク」(講談社)(ISBN:4062125366)のための準備体操を継続中。村上春樹柴田元幸「翻訳夜話2サリンジャー戦記」(文春新書)(ISBN:4166603302)を読んでいる。
サリンジャーキャッチャー・イン・ザ・ライ」(白水社)(ISBN:4560047642)のなかで、ホールデンが、youに対してしゃべるという語り方について、このように語っている。

柴田 読みの問題としては、このあいだも少し触れましたが、僕はホールデンがこれだけyouという言葉を使うことで、逆に彼がひとりぼっちであることがむしろあらわになる気がするんです。アーニーのピアノをみんなが聴いて拍手喝采するところなんか、喝采している「彼ら」を「君」が見たら反吐が出たと思うよというふうに、一方に「僕」と「君」という小さな親密な輪があって、一方に大勢から成る「彼ら」がいる、という見取り図になっている。でも、その「君」はどこにいるのかなあと考えてみると、実は彼の頭の中にしかないというか、虚空に向かって語っているという感じがするんです。それはけっこう切ない感じです。
村上 ほんとにそのとおりですね。本当はどこかにいるはずなんだけど、どこにもいない友だちに向けて話しかけているみたいなところがありますね。感覚や価値観を共有する友だち。「君ならわかってくれるよね」みたいな。青春って……とひっくくって言っちゃうとなんだけど、だれにも多かれ少なかれそういう感覚があるんじゃないかな。

ブログというものも、ホールデンの""you""「君」への語りかけに似ているのかなと思う。
普段、私のまわりにいる「彼ら」には通じそうもない、「僕」のひそかな心のうちをわかってくれる「君」に向かって語りかけている。
このブログの読者のなかに、実世界やインターネット上での知り合いもいるけれど、だいたいは、顔も見えない、どこにいるのもわからない「君」を相手に語っている。もしかしたら、だれも読んでいないかもしれない。「君」にわかってもらえるというのは、「僕」の思いこみかもしれない。虚空に向けて語りかけているのかもしれない。
これは、切ないことなのだろうか。自分は、あまり切ないことだとは思わない。ホールデンと自分とは似ているのだろうか。自分は、あまり似ていると思わない。
ブログを書くという無償の営みを、自分は、なぜ、続けているのだろうか。