直観

このところ、伝統や思考、言葉といった問題を巡ってとりとめもなく書いている。考えがまとまっていないから、なかなかまとまった文章を書けないけれど、こんな風に書いていけば、いずれは、もっとすっきりとしたものが書けると思いたい。
柳宗悦は、「正しい見方」について、次のように書いている。(柳宗悦「日本の眼」(「茶と美」(講談社学術文庫 ISBN:4061594532)所収))

 有名だからよいと思ってみたり、評判に引きずられて見たり、主義主張から見たり、自分の小さな経験を基にして見たり、なかなか純には見ぬ。純に見ることを「直観する」というが、直観はその文字が示すとおり、見る眼と見られる物との間に仲介場を置かず、じかに見ること、直ちに見ることであるが、この簡単なことがなかなかできぬ。多くは色眼鏡をかけて見てしまう。あるいは概念の物差しを出して計ったりする。ただ見ればよいのに、いろいろの考えを持出して見る。そうなるとじかには見ぬから、ものそのものは見えぬ。色眼鏡を通すから本来の色が見えぬ。眼と物との介在するものがある。これでは直観にならぬ。直観は即今に見ることである。昨日見たなどというものは、もう直接でなく、間接なものに去ってしまう。今直ちに見る以外の直観はない。何ものも介在させず直下に見るのだから、これを簡単に「ただ見る」といってもよい。ただ見るのが直観の働きである。禅的にいえば、「空手にして受取る」といってもよい。

ここにかかれている柳宗悦の言葉にはじつに共感できる。若い頃は、「ただ見る」ということができず、さまざまな色眼鏡を通じて見ていた。誰かが「良い」と言ったものを「良い」ものとして見ており、誰かが「悪い」と言ったものを「悪い」ものとして見ていた。最近はそのような眼をくらましていた垢が落ちてきて、単純に「好き嫌い」でものを見ることができるようになってきた。もちろん、色眼鏡がまったくなくなり、本当の意味で自由に「ただ見る」ということができるようになったというわけではないが。
いろいろなものを「ただ見る」ようになってくると、理屈抜きにものを「好き」「嫌い」「関心なし」の三種類に分けることができるようになる。しかし、立ち止まって考えてみると、なぜ、自分は、ものを「好き」「嫌い」「関心なし」の三種類に分けることができるのだろうか、その基準は何で、どこからやってきたのか、もしくは、どうやって自分のなかからわいてきたものなのか、不思議になる。
自分が直観で「好き」と思うものを並べてみれば、共通点がある。それらを観察すれば、自分は、どうもこんなものが好きらしい、という基準はわかる。しかし、どうして自分はそのような基準を身につけるようになったのか、それが不思議に思える。柳宗悦は、なにゆえ直観が可能なのか、という点については疑問を感じていなかったのか、直観の由来については書いていない。
今の私は、色眼鏡でものを見るよりは、ただ見る方が、自然で楽しく感じられる。しかし、どうやら、色眼鏡でものを見るよりただ見る方がよいという考え方は、普遍的というわけではなく、近代という時代と関わりが深いようだ。
前田愛「増補文学テクスト入門」(ちくま学芸文庫 ISBN:448008953)に、日本での近代小説が成立した時期について、次のように書かれている。

 この『小説神髄』と並行して書かれた『当世書生気質』、ここで注目されるのは、書生たちをさまざまな類型によって分類していることです。つまり博物学的な分類学がそこに展開されているといえるのではないかと思います。外形を描くには、博物学の観察の精神をもってする。人間の内面、つまり人情を描くには、心理学の知見を応用する。これが『小説神髄』の論理の骨格になっています。
 ところで、この博物学についてはミシェールフーコーの『言葉と物』に非常に的確な説明がありますが、たとえば狐なら狐についてのあらゆる言説、プレテクストを蒐集したもの、これが博物誌です。ところが、そういうプレテクストを排除して、ある一つの植物のかたち、あるいは動物のかたちというものを視線に訴えるかぎりでニュートラルに記述していく、これが博物学の精神であるといっているわけです。逍遙は、まさにこの博物学の精神に基づいて、いわば博物誌的な引用のモザイクであった馬琴を否定している。博物学の精神、つまり観察の精神、これを土台に新しい小説のあり方を定めようとしたのが『小説神髄』である、このように理解していいかと思います。

ここに書かれている「博物学の精神」は、まさに、柳宗悦がいう「ただ見る」に並行している。茶器の銘や箱書といったものは、まさに、博物誌で蒐集されるプレテクストである。柳宗悦が批判する在来の茶道家は、茶器をただ見るのではなく、プレテクストを蒐集する博物誌的態度で見る。私自身、近代を経た現代に生きているから柳宗悦の見方の方に共感するけれど、柳宗悦のように単純に批判することはできないと思う。それは、柳宗悦の見方も近代に制約された一つの見方であり、前近代の博物誌的見方と、どちらが優れていると決めることができる立場はないからだ。