ハイビジョン特集「樂茶碗 受け継がれた四百年〜京都 十五代樂吉左衞門〜」

最近、地上波のテレビ番組のつまらなさは目を覆うばかりである。
限られた予算でなんとか視聴率を稼ごうとしているせわしない番組が多い。あまり手間をかけずに取材した細切れの情報に、スタジオにいるゲストがコメントを付け、薄い内容で時間を稼いでいるような番組には、すっかり食傷している。
NHKも例外ではない。夜9時台のニュース番組のニュース9は、内容は薄いところを下手なコメントで引き延ばしている。衛星放送では1時間おきに15分枠のニュースを流しているけれど、ニュース9の情報量とその15分のニュースの情報量にさほど差がない。
画一的になっている地上波に比べ、衛星放送は、あたりはずれの差は激しいけれど、拾い物の番組もある。今晩放送されていたハイビジョン特集「樂茶碗 受け継がれた四百年〜京都 十五代樂吉左衞門〜」は、樂茶碗を作り続けた樂家の十五代目樂吉左衞門の一年をていねいに追ったドキュメンタリーで、実に興味深かった。
美術館で樂茶碗をいくつか見たことはあったけれど、どんなふうに焼かれているのかまったく知らなかった。ばくぜんと登り窯で焼かれているのかと思っていたが、まったく違っていた。茶碗がひとつはいる小さな窯に入れ、その回りを炭で囲い、ふいごで空気を吹き込み高温で一気に焼き上げていた。まるで刀でも焼くような高温で、それであの独特の黒色がでていたことを知った。
樂家は、一子相伝でありながらも、秘伝があるわけではなく、作り方は教えないことが家訓であるという。黒茶碗は当主にならなければ作ることができないが、先代から釉薬の調合は教えられず、自分で作り上げなければならない。そのことが、樂家の各代は、伝統を守りながらも、それだけにとどまらない創造をする原動力になってきたという。
もし、自分が樂家を継ぐとしたら、実に厳しい家訓だと思う。樂家の仕事はものが残されるから、自分の茶碗と初代の茶碗が比較される。くちさがない京都の人のなかで、自力で樂家の当主としてふさわしい茶碗を作り上げなければならないということは、生半可なことではない。樂吉左衞門は、樂家の当主であることは、覚悟である、と語っていたが、まさにその通りだと思った。また、各代の当主をそれだけ厳しい環境に追い込むことで、逆に、樂家が途絶えることなく続いてきたのかもしれない。
こんな時間をかけて作られたドキュメンタリー番組をもっと見たいと思う。