陰謀説の心理

私自身は、「陰謀説」はトンデモとして楽しむ対象としては面白いし、どのような心理で「陰謀説」が作られるのかは興味深いけれど、その内容については基本的にはまともに考える価値はないと思っている。
丸山眞男「忠誠と反逆」に、陰謀説に落ち込んでしまうパターンについて説得的に書かれていたので、引用したい。

 歴史の一定のコースをふり返った時に、後になって整然と形態化され、あるいは巨大な怪物(レヴァイアサン)にまでふくれ上ったものの端緒的な契機をだんだん遡って探し求めようとすることは、私達の自然な気持であるし、また歴史研究の不可欠な課題ともいえよう。ただその際同時に私達は、歴史というものがいつでも、到達すべき成果に向かってのある計画的な意図の実現であり、一つ一つの過程がそのための着々とした布石であるかのように想定しがちなものである。歴史的説明としてさまざまの形態で現われる「陰謀説」は、多かれ少なかれこうした傾向の所産である。のちにつくられた日本帝国の支配体制が、きわめて巧妙に構築されているために、今日から見ると維新政府は、成立当初からそうした体制のイメージを明確に頭に描いて一切の政策を押し進め、そうした通路の障害となる民主的な動向を着々と排除していったように考えられやすい。けれども、少なくとも維新後十数年の歴史的状況は、もっとどろどろした液体性を帯び、そこには種々な方向への可能性がはらまれていたように思われる。
「開国」(p225)

現実はいつでも「どろどろとした液体性を帯び」ているのだろう。それに耐えられなかったり、また、それを認めない必要が生じたとき「陰謀説」が現れる。
いわゆる「自由主義史観」に共感はしないけれど、「東京裁判史観」というのも陰謀説の一種ではあるのだろうと思う。実際には、混沌としたまま戦争に突入してしまったのが実態なのだろうけれど、誰かに責任を取らせるためには、陰謀説を組み立てざるをえないのだろう。

忠誠と反逆―転形期日本の精神史的位相 (ちくま学芸文庫)

忠誠と反逆―転形期日本の精神史的位相 (ちくま学芸文庫)