近代以前

最近、谷崎潤一郎にはまっている。
吉野葛・盲目物語」(新潮文庫)(ISBN:4101005133)を皮切りに、「細雪(上・中・下)」(新潮文庫)(ISBN:4101005125)「春琴抄」(新潮文庫)(ISBN:4101005044)「少将滋幹の母」(新潮文庫)(ISBN:4101005095)と読み進めてきた。どれもおもしろかった。
数年前、「痴人の愛」(新潮文庫)(ISBN:410100501X)を読んだことがあったが、楽しめなかった。そのときは、まだ、谷崎を読む準備ができていないのだろうと考え、準備が整ったと思えるようになるまでは読まないでおいておくことにした。ただ彼の随筆はおもしろく読むことができた。「谷崎潤一郎随筆集」(岩波文庫)(ISBN:4003105575)はよく読み返していた。特に、「私の見た大阪及び大阪人」「陰影礼賛」が好きだった。
去年の年末、奈良、京都、大阪、神戸と関西旅行をし、今年の夏休みに京都へ再訪した。それ以来、すっかり関西に魅了されている。そして、今なら関西移住後の谷崎の小説を読む準備ができたのではないかと思った。
冒頭の「こいさん、頼むわ。―」という関西弁のせりふだけで、すっかり「細雪」の世界に引き込まれてしまった。関西弁の会話が読みたいばかりに、話が終わらなければよいと思った。
細雪」を読みながら、野上弥生子「迷路(上・下)」(岩波文庫)(ISBN:4003104927)を思い出していた。どちらも昭和10年代の日本の上流階級の家庭を舞台とした長編小説である。いずれも、一度は連載が中断に追い込まれたものの、戦争中に書きつづけられ、戦後に完成し、発表されたことも共通している。
「迷路」は、上流階級の家庭を中心としながらも、さまざまな階級、世界に関わる人物が登場し、ストーリーは、空間的にも社会的にも大きな世界に広がっている。構成はよく練られており、日本には珍しい本格的な近代小説である。あのころの日本の世情を知るためには必読の小説だと思う。
一方、「細雪」のストーリーは、蒔岡家の四姉妹の三女の雪子の見合いの話に終始している。小説の舞台も蒔岡家の女たちの交際範囲に限定されており、社会問題に触れることもない。主人公である雪子の心理が描写されることもなく、また、彼女はひたすら受動的な存在で、成長することもない。自我があるように見えないのである。そのような主人公を持った「細雪」は、いわゆる近代小説としての条件を満たしているとは言い難い。
しかし、「迷路」は退屈である。教養という目的がなければ、なかなか「迷路」を読み通すことはできないだろう。そして、圧倒的に「細雪」の方がおもしろい。
細雪」には、蒔岡家四姉妹がきらびやかな着物を着て京都にお花見に行くシーンがある。ただ美しく、壮観である。その美しさだけ味わうだけで、もうあとはなにも理屈はいらない。
谷崎潤一郎は、「春琴抄後語」という随筆で、次のように書いているという。

作家も若い時分には、会話のイキだとか、心理の解剖だとか、場面の描写だとかに巧緻を競い、そういうことに夢中になっているけれども、それでも折々、『一体己はこんな事をしていいのか、これが何の足しになるのか、これが芸術と云うものなのか』と云うような疑念がふと執筆の最中に脳裏をかすめることがある。

「春琴抄」には、登場人物の心理が描かれていないとか、いかに生きるべきかの痛烈な問いかけと訴えがないという批判があったという。的はずれな批判である。会話のイキだとか、心理の解剖だとか、場面の描写が巧緻な小説もいい。構成が見事で深みのある本格的な小説もいい。しかし、そんなことは何も関わりなく、近代小説の条件を満たしていなくとも、谷崎潤一郎の小説のようなおもしろい小説はありうるということなのだろう。
「春琴抄」の冒頭、作者が大阪の郊外にある春琴と佐助の墓を参る場面がある。山の斜面にある二つのお墓の向こうに、夕日に染まる大阪の市街が見える。いかにも芝居めいた絵柄である。「春琴抄」も近代小説とはいえない。しかし、この場面は非常に美しい。
また、テーマによっては、積極的に近代小説の枠組みがじゃまになることもあるように思う。野上弥生子の小説が気になって「利休と秀吉」(新潮文庫)(ISBN:4101044023)を読んでみた。この小説には、利休の末息子、紀三郎という架空の人物が登場する。紀三郎は、架空の人物だけあって、野上弥生子が自由に動かすことができる。そのせいもあるのだろう、彼の行動や心理はまるで近代人のようで、桃山時代の人間とは思えない。紀三郎がでてくるエピソードをすべて削除した方がいい小説になるのではないかと思った。しかし、近代人であり、近代小説を書きたい野上弥生子にとって、紀三郎と父利休との葛藤こそが、いちばん書きたかったことなのだろう。しかし、その部分は、私にとっては退屈に感じられる。
「利休と秀吉」に限らず、歴史小説であっても、妙に近代人めいた人物が登場することがある。そのような人物が気になって、過去の話を読んでいる気分にならなくなる。もし、「利休と秀吉」をテーマに森鴎外に書かせれば、不自然な人物も出さず、すっきりとした小説を書いただろうと思う。
少将滋幹の母」は、今昔物語集など平安時代の物語を題材として書かれている。原話を読みたくなり、図書館から「今昔物語 本朝編(新日本古典文学大系)」(岩波書店)を借りてきた。今昔物語には、よけいなことが書かれいないのがいい。
試しに、芥川龍之介の「羅生門」(「羅生門・鼻・芋粥・偸盗」岩波文庫所収)(ISBN:4003107012)と「藪の中」(「地獄変邪宗門・好色・薮の中」岩波文庫所収)(ISBN:4003107020)の原作になった話を現代語訳してみた(「羅城門登上層見死人盗人語」、「具妻行丹波国男於大江山被縛」)。
できうるかぎり直訳してみたが、原話の迫力は、なかなか再現できなかった。訳した後、原話と芥川の小説と比べ、彼の巧みさ改作ぶりを再認識した。芥川の書く「羅生門」の盗人は、明らかに近代人の自我が与えられている。原話の身も蓋もないストレートさもいいけれど、芥川の小説も近代小説になっているにもかかわらず、「利休と秀吉」の紀三郎のような不自然さや嫌みは感じられない。どうしてだろうか。理由を考えてみたいと思う。