うまい

会社でまだ若手社員と呼ばれていた時期には、出張で飛行機に乗ると、週刊誌を借りて読むことが多かった。週刊文春週刊ポストのコラムがおもしろかった記憶がある。しかし、女性のグラビアが載っていることもあって、飛行機で週刊誌を貸し出さなくなって、いわゆるコラムを読む機会が減った。
山口瞳のコラムを集成した「山口瞳男性自身傑作選 中年編、熟年編」(新潮文庫 ISBN:4101111332, ISBN:4101111324)を読み、コラムを読んでみたくなり、丸谷才一のコラム「猫だつて夢を見る」(文春文庫 ISBN:4167138107)「青い雨傘」(文春文庫 ISBN:4167138131)を読んでみた。
コラムは、定められた分量で作者の芸を見せるところに、ひとつのポイントがある。丸谷才一のコラムは、いかにもコラムらしい芸があって、うまいなあと感心させられるところが多かった。このウェブログを書く上で、参考になるところが多々あった。しかし、うまさに感心する以上にこころに響いてくるものがない。むしろ、丸谷才一は、実は、薄っぺらな人なのではないか、という印象を持った。
具体的に例を挙げて書いてみたい。「猫だつて夢を見る」という中に、「豆腐」というコラムがある。当然、豆腐についてのさまざまな蘊蓄が技巧を凝らして語られている。

 ここでちよつと話が飛躍。
 毛沢東は、ローマ字化に熱中してゐたころ、かう演説をしたことがある。
「わたしの墓には、彼が中国共産党の指導者だつた、とは彫らないでくれ。彼は中国の文字を、漢字からローマ字に改めた、と彫つてくれ」
……
 …この毛さんの台詞はいろいろ応用がききますね。……
 そしてわたしなら、
「私の墓には、小説家兼批評家だつたとは彫らないでくれ。彼は豆腐が好きだつたと彫つてくれ」
 なんとなく悲しくなつて来た。
 悲しいと言へば、以前わたしは、何かの文章で小泉喜美子さんのことを引合ひに出し、「女流探偵作家中、屈指の美女にしてかつ才媛」と書いたことがあつた。それが雑誌に出ると、小泉さんは、彼女の住んでいるマンションの真ん前にある豆腐屋の、絹ごしを一丁、木綿ごしを一丁、おみやげにして拙宅を訪れた。つまりそれくらゐわたしの豆腐好きは喧伝されてゐたわけですが、それにしても、あれは本当にしやれたお礼の言い方だつた。もうすこし長生きしたつて、よかつたのに。
 いよいよ悲しくなつて来た。話題を変へましょう。

引用した部分で丸谷才一は、自分がいかに豆腐好きか、ということを語りたいのだろう。そのために、小泉喜美子が豆腐を持ってきたことを引き合いに出している。それだけであればとくに問題はないけれど、とってつけたように「もうすこし長生きしたつて、よかつたのに。いよいよ悲しくなつて来た。」と書いている。この部分を読んで、丸谷才一が真剣に小泉喜美子が早世したことを悲しんでいるように思えなかった。コラムの流れとして、レトリックとして、ちょうど小泉喜美子の話が収まりがよかったから持ち出しただけのように思える。人の生き死ににまつわることを、実際にはそんな気持ちもないのに、ただコラムの技巧の都合だけで書くというのは、いかにも不誠実で感じが悪い。
そもそも、「うまい」という言葉はほめ言葉になのだろうか。技術的に優れていても、それ以上でも以下でもない、というものに限って「うまい」と形容されるのではないか。うまい上におもしろければ、おもしろいと形容されるだろうし、心をうつものであれば感動したと形容されるだろう。おもしろさも感動もなく、ただうまいだけも作物は「うまい」と評される。丸谷才一のコラムは、まさに「うまい」コラムだと思う。